ブログ移転のお知らせ

当ブログは、2021年12月より新ブログにて発信しています。新しい記事については 移転先→新日々のネパール情報 をご訪問ください!今後ともよろしくお願いいたします。

2006年4月30日日曜日

チュチュンドラ

昨日、チュチュンドラの話題を出した。

チュチュンドラというのは、昨日も書いたがモグラのような小動物。サイズは手のひらに乗る程度。ぱっと見た感じでは、ネズミそのものなのだが、口先が細長く、なかなか笑える顔をしている。

ネズミは退治するのに、チュチュンドラを退治してくれない、うちの猫。

これには、本当かウソか、実は深い理由がある。

チュチュンドラは、ヒンドゥ教ガネシュ神(象のような顔をした神様)の乗り物でもあり、召使でもあるとされている。たとえば、ガネシュがどこかに移動する時には車代わりにもなり、ガネシュがメッセージをどこかに送るときには、仰せつかって自ら先方に届けたりする。

ニンゲンにとっては迷惑な存在なのだが、実は神の使いでエライのだ。

だから、ネズミは退治する猫も、チュチュンドラには見向きもしないのだと信じられている。神の使いを殺したら、罰があたるということを、猫も知っているというわけ?なのだ。

2006年4月29日土曜日

穢れの概念

ネパール(のヒンドゥ教)には、『ジュト(jutho)』とよばれる穢れ(ケガレ)の概念がある。

民族、カーストによっても、この概念に差はあるのでひとくくりにはいえないが、その中のひとつに、こういうものがある。

他人が口をつけた食器、食事中に触った食品などは『穢れ物』として扱われる/自分よりカーストが低い者が触れた食品、食器なども同じ扱い

大皿盛のメニューをみんなでつつきながら食べたり、鍋のようなメニューを取り分けて食べることなど、もってのほか。

異カーストである私がヒンドゥ教徒バフン(ブラーマン、司祭カースト)の家に遊びに行くと、絶対にかまどのそばには寄らせてくれないし、場合によっては台所の外で、みんなと離れた場所で1人食事を取らなくてはいけない場合などもある。

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この、穢れのジュト精神に関連する(?)話を。

冬が終わり暖かくなった頃から、家の中にチュチュンドラ(くちばしの尖ったモグラのような小動物)が侵入してきて困っている。

屋外からばかでかいムサ(ネズミ)を室内に運び込んでくるうちの飼い猫も、家に潜んでいるチュチュンドラには興味を示さない。

この前など、うちの猫の餌の食べ残しの中に、チュチュンドラがずうずうしくも入り込み(ゴハンの上にちょこんと乗って)、ペチャペチャ食べているシーンを、うちの猫は至近距離でじっと見つめていた。攻撃前の様子というわけでもなく、自分の餌を堂々と食べている小さな物体を、興味深く眺めている様子でしかなかった。

退治してくれうちの猫、と思ってしまうが、チュチュンドラには見向きもしないのがもどかしい。

うちの猫が後で食べようと残しておいた餌にチュチュンドラが触れると、2度とその餌を口にしてくれないのも困る。(ネパールの物価からすれば)高価なキャットフードが混ざった餌を捨てるしかなく、もったいなくもある。猫にとってのジュト精神であるような気もしておかしいのだが。

そこである日、残り物の餌を、大家が飼っている生後約半年になる犬2匹にあげてみた。

白いゴハンに、キャットフードやシドゥラと呼ばれる乾物の小魚が混ざっている餌。うちの猫が半分食べて、その後、チュチュンドラが口をつけた、思い切り穢れまくったものではあるが、ダルバート(豆のスープとゴハンという、ネパール定食)の残りしか与えられていない犬たちにとっては、ご馳走のはず。(大家が犬に与えている餌は、いかにも、ネパール人の食事の残り、という感じで、ターメリック色の黄色いものばかりなのだ)

ヒンドゥのジュト精神を意識することの多いここでの暮らしでは、動物にであっても、少し罪なことをしている気になってくる。でも、食べ物を捨てるよりはいいはず、と自分に言い聞かせ、犬の前に差し出すと、、、もう、興奮状態で、大喜びで食べまくる犬たち。

それ以来、猫とチュチュンドラによって穢されまくった餌の残りを、こっそり犬に与えている、罪深い私なのであった。

2006年4月28日金曜日

鶏肉の別名



世界的に鳥インフルエンザ(以下、バード・フルと表記)の被害が広まっている。ネパールでの報告は今のところないようだが、今年2月、隣国インドで感染が見つかって以来、ネパールでもしばらく鶏肉の人気が下がっていた。

そういう世相にはそれほど影響されない私なのだが、私も先日まで鶏肉は買わないようにしていた。

かなり前(2~3年前)にこちらのテレビで『ローカルな肉屋には、病気で死んだ動物の肉が売られていることがある』というようなことを流していたことがある。衛生管理があまいネパールでは、そういうことも日常的にされていて、不思議ではない。もし、そういう肉を食べて病気になったとしても、先進国みたいに、原因を突き詰めて、誰かが責任をとってくれるようなことなど、ありえない。買い損、食べ損、というわけだ。

インドでバード・フルの感染が報告されたことを知ったとき、今まですっかり忘れていた、この(病気で死んだ動物の肉を売ることがあるという)ニュースを突然思い出したこともあり、しばらく鶏肉を含む肉自体を控える気になっていたのだ。

それはさておき、ネパール人たちは、けっこうこういう世相を鵜呑みにしやすいためか、しばらくの間、鶏肉を扱わない店なども増えていた。しかしその後、ネパールの獣医などが鶏肉を食しながら『私たち獣医もヘイキで鶏肉を食べています。ネパールではバード・フルは問題ありません』というシーンを流したこともあり、少しずつ鶏肉人気も復活してきた。

前置きが長くなったが、バード・フル問題後、鶏肉の呼び名が変わった。というか、ネパール語で鶏肉のことを『ククラ・コ・マス』(ククラ=鶏、コ=の、マス=肉)というのだが、肉屋で鶏肉を求めるとき/ローカル飯屋などで鶏肉を注文するとき、『ククラコマス、ある?』とは聞かない人が増えたのだ。(冗談の通じる人たちは特に)

では、何と言うかというと、ズバリ、『バード・フル、ある?』というのだ。

ちょっとダイレクトすぎない?と思うのだが、それで意味が通じてしまうから、笑えてしまう。

* 昨日久々にローカル飯屋で外食をしたとき、『バード・フル』を注文していた男性を近くで見て、しばらく食事ができないぐらい笑いのツボにはまってしまい、このネタを書く気になったわけでした(笑)。

2006年4月27日木曜日

当ブログ内文章引用時のお願い

ネパール情勢もいきなり(見かけ上は)落ち着いてしまい、なんだか腑抜けしてしまった感のある今日この頃。先日まで、一日に何度かアップしていたのに、すっかりやる気がなくなってしまった。

さて、情勢悪化とともに、当ブログアクセス数が急増し、ひとつ勉強になったことがあった。

2002年10月より母屋サイトを発信し始め、2005年1月より、このブログを発信し始めた。公私混同を避け、客観的事実と主観的意見を区別するため、母屋では、(旅行に影響のあるネパール情勢の)客観的事実のみを発信し、ブログでは、主観の混じったどうでもいいことをだらだら書き綴っている。

今回の情勢混乱の際にも、私のごくごく主観的意見や日常生活のことなど、ブログには書いてきた。

その内容の一部を、私の意思とは関係なくコピーペーストして、先日、第三者が発信する掲示板に掲載された方がいた。その掲示板は、おそらく、ネパール関連のサイトの中では一番有意義な、そして、アクセス数の多いもの。このブログ訪問者の方たちも、必ず一度は足を運んだことがあると思う。

そんな偉大な掲示板に、私が個人的に自分のブログで発信した内容がコピペされたことは、ある意味嬉しいことでもあるのだが、状況が状況だけに、非常に戸惑った。

自分が発信するサイトやブログ内での発言には気をつけているつもりだし、責任を取れるつもりでもいる。しかし、私の意思とは関係なく、私の知らないところで(私の承諾なしに)、私が発信した主観まじりの記事が、全く知らない人(あるいは知っている人なのかもしれないが)によって、その人自身が発信するサイトではなく、これまた全く関係のない第三者の掲示板に書き込まれた場合、私はどうやって責任を取ったらよいのだろう?

このような情勢を利用して(いつもよりその掲示板のアクセス数が増えていることを利用して)、売名行為的に(匿名のフリして)自分で書き込んだのではないか、と思った人も、中にはいたかもしれない。実際に、それらしき書き込みも見たことがあるので。でも、他人のサイトを借りて、自分の売名行為をしたり、自分の意見を主張したりすることは、私の本意ではないし、信念(というと大げさすぎるが)に反する。しかし、その掲示板に書かれた書き込みは、そのようにも取れなくもない書き方でもあり、私は戸惑った。

多くの人が私が発信するサイトやブログを見てくれている、ということは、嬉しいこと。母屋もブログも、リンクフリーなので、どんどんリンクしていただいてかまわない。

アクセス解析で逆探知すると、私の全く知らない人が、その人のサイトに『ネパール情報』としてこのブログをリンクしてくれていることを知ることがある。こんな主観たっぷりの稚拙なブログをリンクしていいの?と思ってしまうこともあるが、それはそれで、とても嬉しい。

でも、私がここで発する内容は、このブログ上でのみ責任が取れるわけで、引用され、第三者の掲示板などに載ってしまうことには、非常に戸惑いを感じる。

きっと、コピペした書き込み主の方は、それほど深く考えていなかったことと思う。私が発信する内容に同感し、好意的に受け止めてくれた結果なのだと思う。そのことに関しては心から感謝している。

でも、私としては本意でもないこともあり、本日、管理人さんに個人的に連絡をし、適切な対応をとってもらった。だから、もうその掲示板を訪れても、いったい私が何のことを言っているのか、分からない人もいるだろう。

これからも、多くの人に母屋やブログを見ていただきたいと思うし、リンクも大歓迎。でも、このブログ内の文章を、第三者のサイトにコピペする際には、是非、ひとこと連絡をもらえると嬉しい。

2006年4月25日火曜日

裸足効果

4月6日~24日まで、19日間続いたバンダ(スト)。

* 本日25日から、(見かけ上は)通常にもどっています。

4月16日以降は、ガソリンも不足し始め、売ってくれなくなっていた。普段はバイク移動がメインの私だが、バンダ中は車輌を動かしていると狙われることもあるし、ガソリンも不足気味であるならば、徒歩移動に切り替えようと、外出時に徒歩で移動していたことがあった。

日中30度を越す気温となっているカトマンズ。標高約1400mに注ぐ日差しは厳しく、炎天下の徒歩移動は疲れる。

いつもはサンダルにクルタ(ワンピースとパンツ、ショールが三点セットになっているネパールの衣装のひとつ)もどきの格好をしていることが多いが、このときばかりはジーパンにTシャツ、歩きやすいスニーカーをはいて、頭には日よけのための白い帽子を深々とかぶり、サングラスをし、背中に小さなリュックを背負って(その中にはもちろん飲料水を入れ)外出していた。

この姿を見かけた近所の人何人かに、

オホ~(あらまあ、というような感嘆詞)、アンドーラン(抗議行動)にでも行きそうないでたちで、どこいくの?

とからかわれたことがあった。まさに、私の格好は、いざ出陣、という感じの、抗議行動向けのファッションだったのだ。

しかし、実際に抗議行動に参加している人たちの格好はといえば、普段と同じ軽装で、足元はチャッパル(つっかけ/サンダル)という人が多かったようだ。

歩きやすい靴を履けばよいのに、チャッパル履き。そのためか、大群衆と武装警官/アーミーが衝突し、群衆がクモの子を散らすように逃げていった後の道には必ず、おびただしい数のチャッパルが散乱している光景が見られた(ニュースや新聞で見ただけだが、かなり広い道が、チャッパルで埋め尽くされているという感じ)。無我夢中で逃げている間に、脱げてしまったのだろう。

道に残されているのは似たようなチャッパルばかり。落ち着いた頃に、自分のを探しに戻ってくるのだろうか(そうだとしたら笑える)。それとも、あとで武装警官やアーミーが、渋い顔をしながら片付けるのだろうか(それも、もっと笑える)。どうでもいいことなのだが、気になっていた。なぜ、チャッパル履きなの?

この素朴な疑問を、何人かのネパール人にぶつけたところ、返ってきたほとんどの答えは『裸足効果』。つまり、チャッパル履きだと、すぐに脱げ、裸足になって逃げやすい、というのだ。

ホントか、それ?と思ってしまうが、確かにこちらの人は、裸足に慣れている。村などでは、舗装されていない、小石が転がっているでこぼこ道でも平気で裸足で歩いている。気合を入れるときは履物を脱ぐ人も多い。ガイジンが、高価な登山靴を履いてトレッキングをしている中、地元の人はすいすいと裸足やぞうりで山道を移動している。

靴なんて履くよりも、いざというときは裸足になって逃げるほうが、都合がいいのだろう。

ネパリ・ジャナタ(ネパール国民)の裸足パワーはすごいのだ!

一夜明けて

昨晩の国王声明により、とりあえず一段落したネパール。

交通量は通常と比べて少なめではあったけれど、昨日までの外出禁止令がウソかのような、一見した感じでは普通の雰囲気しかただよっていなかった。歓喜に満ち溢れている群集を除けば。

なんなんだ、この変わり身の早さは?昨日まで、あんなに暴れまくっていた国民なのに、今日は満面の笑み。昨日までネパール情勢に一喜一憂していた自分が、バカみたいに思えてくる。

まあとにかく、普通であるということは、すばらしいこと。普段はイライラさせられるタクシーの無意味なクラクション連発でさえ、笑顔で許してあげたくなってしまった一日だった。

2006年4月24日月曜日

GW旅行大丈夫そう?

つい1時間程前(24日NST 22:50/JST 02:05 +1)に、日本国外務省から先ほど発表されたネパール国外退避勧奨についての記事をアップしたばかりだが、その後、24日NST23:30 (JST 02:45 +1)から、国王の声明発表があった。

声明によると、とりあえず7政党の望み通りの内容であったようで、今までのような活発な抗議行動は、一段落しそうな感じだ。

懸念していた25日からの通信遮断はたぶん行われないだろうし、外出禁止令も、たぶん、もう、出ないだろう。25日の200万人規模のデモも、実施されないだろう。その代わり、大群衆による勝利行進?は、実施されそうだが(苦笑)。

24日23:30からの国王声明直後、私が住む自宅近所からも、歓声・口笛が聞こえてきた。王宮付近には、すでに喜びを抑えきれない?市民が集まり始めているという。連日の抗議行動に始まり、今日も、夜中だというのに、ほんと、みなさんご苦労様です(苦笑)。

でも、まだまだすべてが解決したわけではない。が、とりあえずGWの旅行は、キャンセルしなくてよい状態になったといえる。(もうすでに、多くの人がキャンセルをしてしまっていると思うが。あと少し早ければ、GWの日本人客ももっと増えていただろうから、少し遅すぎた・・・)

ただし、それは、外出が今までと比べて自由にできるようになる(外出禁止令が出ないから)というような理由からであり、いきなりすべてが解決したわけではないので、今までの流れをよく理解したうえで、ネパール入りしたほうがよいだろう。この時期、旅行予定の人が、『ネパールって、今あぶないんですか?』という質問をするのは、はっきり言って無知すぎる。

旅行に関する詳しい情報(観光できそう?ツーリストバスは動きそう?等)については、また25日以降アップしていきたい。

ネパール退避勧奨

ついに、出てしまった。日本国外務省からの退避勧奨。しかし『勧告』よりはゆるいそうだ。以下、大使館からのお知らせ転載。

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大使館からのお知らせ 4月24日(06-62)

日本国外務省は24日、当地情勢に鑑み、ネパールに対する渡航情報(危険情報)を発出しましたので、以下のとおりお知らせ致します。

1.現在のネパール情勢は一段と不透明になってきており、7政党は25日にも更に大規 模な抗議行動を予定する等、治安情勢が急速に悪化する可能性も排除されません。また、ゼネスト、外出禁止令が継続されており、食料品等の物資も逼迫しています。よって、短期滞在者のみならず長期滞在者であっても、特段の事情のない方は、可能な限り早期に国外へ退避するようおすすめします。

2.なお、24日、米国が自国民に退避勧告を発出したほか、韓国が不要不急の自国民に 出国を勧告し、加えて中国も館員家族の待避を決定しています。

3.なお、出国される場合はお名前、出発日、出国先、同伴家族名を大使館まで必ずご一 報下さい。メールの返信で結構です。

4.出国に際し不明の点があれば大使館までご連絡下さい。また、必要な情報は適宜お知 らせします。

大使館電話:1-442-6680/夜間対応 :1-442―6687

以上

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ネパール在住者への退避勧奨。ここに根付いている、または、根をはりつつある私などは、そうそう簡単にネパールを見捨てて帰国を決められるものではなく、複雑な気持ち。

23:30から21日に引き続き、再び国王声明が発表される。

明日25日以降

明日25日、7政党が予定している抗議行動。200万人規模を予定しているそうだ。カトマンズ盆地内の人口が、200万人弱というから、つまり、盆地内の住民すべてを動員するぐらいの勢いだ、という強い意志がうかがえる。

ニュースによると、カトマンズ市とパタン市を囲む周囲約20kmほどのリングロード(環状道路)の各地に7政党の代表人物が分散して待機し、市民の指揮を執る計画のようだ。こんな計画性のある国民だったのか、と新たな驚きを感じるが、そんなことに感心している場合ではない。

現時点で情報は入っていないが、明日の外出禁止令はたぶん確定。電話がとめられないことを祈る。そして、死者が出ないことも。

ジョムソン方面にトレッキングに行っている私たちのゲスト。ガイドはいらない、ホテルも自分で探す、(カトマンズ→ポカラ間の移動は空路を利用したが)ポカラからは状況がよくなっていればバスで帰って来る、といって4月半ばに出かけていった。その後状況が悪化し、ポカラ→カトマンズ間の飛行機さえ取れにくい状態になっている。そろそろ帰国も迫っているが、ポカラからカトマンズまで、無事に戻ってくることができるのだろうか?ポカラの連絡先がわからないため、ゲストからこちらに連絡してくれるのを待つしかないが、もし電話が遮断されると、それも難しくなる。(ポカラでこれを見ていたら、メールでお知らせした番号に連絡ください)

こんな情勢でも、GWに旅行を計画しているツーリストの皆さん。今回だけは多少費用がかかっても、まるっきりの個人旅行でなく、緊急情報を把握しやすい形態で旅行することを強くお勧めします。過去、いろいろな情勢になったことがあり、日本でネパールがイラク並みに?危険扱いされていたときも、実際は、現地は全く問題ナシ!という状態のことがほとんどでした。でも、今は少し状況が違います。(常識ある行動をしていれば)外国人だから狙われる、という危険性は皆無といっていいと思いますが、いろんな不安(というか不便)が潜んでいます。そのへんよく考えて、旅行計画しましょう。

考えようによっては



ネパールは、とにかくすごいことになっているようだ。今回のこの騒動は、ネパールの歴史として刻まれることは間違いない。

今日も、11時~18時までの外出禁止令が出た。今日で5日目。でも、今日は発令までに多少余裕があったので、ずっと保留にしていた用事を済ますため、リングロード (20日、数十万の大群衆が行進していたと言う、カトマンズ市とパタン市を囲む環状道路) 近くまで出て行く。外出禁止令発令前、人があわただしく往来している。でも、神様である牛たちは、いつもマイペース。

通行量が少ないと、リングロードはいつもより広く感じる。ところどころ、何か(たぶんタイヤ)が燃やされた後が黒く残っているが、昨日までの騒動や、明日25日リングロードで予定されている大規模抗議行動など、本当にこんな近くで起きたのか(起きるのか)、と、不思議な感じがしてくる。

先日までは気づかなかったが、もう、ジャカランダが咲いていた。



日本の桜のように、季節感を感じさせてくれる花。確実に季節は流れていることを実感する。ネパールの情勢はといえば、4月6日以降、混乱する一方で、先が見えないまま。

外出禁止令が出ていると、もう本当にのどか+暇で申し訳ないぐらいの日々が過ぎていく。昨日から、なぜだか肉まん(てりやきまん)が食べたくて仕方なく、今日のおやつはてりやきまんにすることにした。



こんな情勢のときに不謹慎かもしれないが、考えようによっては、贅沢な時間を過ごせているのかもしれない。

そして今日も

本日24日も、11時~18時まで、今までと同エリアで外出禁止令発令。

日中の発令は、これで5日間連続。先日(4月8日~11日)の4日間連続を足すと、この3週間の間に合計9日間も日中の外出禁止令が発令されたことになる。

2006年4月23日日曜日

ラジオ体操

日中カーフュー(外出禁止令)4日目。昔は、窓を開けてもいけないほど厳しいこともあったと聞く。だから、2001年の国王一家殺害事件のときに数日続いたカーフュー中には、窓も締め切ってひっそり過ごした記憶があるが、最近は、カトマンズ市民もカーフュー慣れしている。

裏道には、普通に人が歩いているし、車の通行がないことをいいことに、道いっぱい広がって、子供はクリケットを楽しんでいる。裏通りにある小さな商店も開いている。大きめのリュックを背負って歩いている人もいるし、バイクが走っている音も聞こえる(遠出はできないはずだがどこに行く?)。

でも、少し大きな通りにでると、そこには武装アーミーが警戒に当たっていて、『裏道に引っ込め』というような注意を受ける。外出禁止令中だからしかたがない。

近所までなら外出できても、それ以上は無理な状態。そういう日が連続で4日も続くと、運動不足にもなってくる。

そういうわけで、タイミングよくテレビ(NHK)をつけてラジオ体操やそのほかの体操をやっていると、迷わず立ち上がり、テレビに向かって一緒に体操してしまっている今日この頃。

真剣にやると、気持ちよい疲労感を感じるから、ラジオ体操もバカにできない。

それにしても、日本国民おそらく知らない人はいないであろう、この、ラジオ体操。こちらに来たばかりの頃、日本人の集まりで、大人も子供もみんなが間違えることなくラジオ体操(ただし第一のみ)をしている姿(自分もその中の1人だったわけだが)を見たときは、驚異すら感じたほどだ。

でも先日、久々に第二をしたら、半分ほど忘れかけていた自分に気づき、日本国民として少し恥ずかしく思った(笑)。

今日も

ネパールの朝は気持ちいい。首都カトマンズとは言えども、明け方にはあちこちでニワトリの声や、小鳥のさえずりも聞こえる。東側にある私の寝室には、太陽が出てくる時間になると、イヤでも光が差し込んでくるので、目覚ましなしでも朝には自然に目が覚める。

今朝も、小鳥のさえずりで目が覚めた。

と、ここまでは気持ちのいい朝だったのだが、すぐに、今ネパールが陥っている、昨日までの現実を思い出して、暗い気分になる。

今日も、外出禁止令が出るのだろうか?(結局、今日も出た・・・)

4月6日から始まった一連の抗議行動、内、カトマンズリングロード内では、今日も含めて計8日目の日中外出禁止令が出ている。

また、携帯電話(プリペイド、ポストペイドとも)、昨日午後からまた遮断されている。

2006年4月22日土曜日

不満は続く

昨日の国王声明に政党は満足せず、今後も抗議行動を続けるとのこと。

今日は外出禁止令は出ていないが、実質上バンダ(ストライキ)状態は続いているようだ。4月6日に始まって以来、今日で17日目のバンダ。異常としかいえない。

まだしばらくは、今までの状態を引きづりそうな気配。

しかし、(旅行者にとっては)外出禁止令が今後出なければ、一応観光はできる。といっても、こんな不透明な状態では、ネパールに来ても、思う存分楽しめないかもしれない。それに、バンダ(スト)状態が続けば、店もシャッターを下ろした状態である場合が多い。また、ツーリストバスがいつから動き始めるかは、現時点では不明。国内線は、20日のみ欠航しただけで、昨日21日からは飛んでいる。国際線は、今回のこの騒動中もずっと運航している(空港は稼動している)。

ネパール流抗議法

ネパール語でカビタ(Kabita)と呼ばれる詩は、語尾が韻をふんでいたり、語呂がよかったりして、耳障りのよい音の流れであるものも多い。

民謡やドホリ(Dohori)と呼ばれる男女の掛け合いの歌にも、この技法が用いられていることが多く、聞いていて楽しい。

連日続けられている抗議行動で群集が叫んでいるシュプレヒコール。抗議行動を間近で見てきた者によると、国王や皇太子に対する強烈なメッセージが叫ばれているとのこと。放送禁止用語連発であるため、ネパールのニュース番組では国営/民放あわせて、その部分だけ音を消す。

しかし、先日NHKで流れたニュースを見ていたら、ネパール人向けでないため問題ないからか、提供側が、この程度なら問題ないと判断したからか、国王批判のシュプレヒコールであるにもかかわらず、音声が消えることなく一部が流れていた。それは、こんな部分だった。

ギャネ チョール! デシュ チョール! 

ギャネというのは言うまでもなく、ギャネンドラ現国王のこと(ギャネ呼ばわりされるなんて、少し国王が気の毒な気もする)。意訳すると、『ギャネは泥棒!国を乗っ取った泥棒!』という感じだろうか。

この程度の批判はかわいいもので、放送されていない部分では、相当すごいことを言っているとのこと。でもどれも聞いていると、語呂あわせよく、韻をふんで作ってあり、よくもまあ、うまいこと考えたなあ、と、不謹慎ながら笑ってしまう。

ネパールの祭のとき/トレッキングの最中に、ネパール人が自然に身を任せて楽しそうに歌って踊る姿を見かけたことがある人は多いと思う。この国の人たちは、小さいときから身近に歌と踊りがあって、体の中から生まれ出た感情を、こうやって体で表現することも多い。

今回、単なるシュプレヒコールを飛ばし行進するのではなく、即興で作った詩に抑揚をつけ歌にし、その歌にあわせて踊るという抗議行動が行われているシーンを、ニュースで流していた。国民の心の中から沸き起こったメッセージを、体で表現した、という感覚だろうか。円陣を組んで、歌い踊っている群衆の周りを、国軍兵や警官が警戒していたが、国軍兵や警官とは言えども、みんな歌や踊り好きな同じネパール国民であることには変わらない。きっと、心の中では彼らも苦笑していたことだろう。

レンガ投げ抗議よりも健全で、いかにもネパールらしいこの抗議行動に、不覚にも感動すら覚えてしまった。

Shanti lyauncha(un) janata ko boli le
Bichar marna sakdaina goli le
(意訳) 僕たち国民の声で平和を呼び戻すよ
      銃弾で思想を撃ち殺すことはできないよ

Timro shasan 2(Dui) dinko bhaeni
Hamro shasan jiban bhari nai.
(意訳) 君(ギャネンドラ国王)の支配は2日だけのものであっても、
      僕たち国民の支配は一生モノなのだ!

* 国王を『君』呼ばわりすることなど、通常はありえない。

2006年4月21日金曜日

今後の状況は?

ネパール時間の21日19時(日本時間の22時15分)、ネパール国営テレビにて国王の声明が発表された。

(しかし、私の住むエリアでは、なぜか声明5分前位から10分ほど突然停電になり、始まりを見損ねた)

さて、その声明の内容は、抗議行動を行っている7政党の要求どおり、国王が握っていた政権を政党に引き渡す、ということであった。つまり、みんなの期待通りの結果となったわけだが、だからといって、明日から状況がよくなるのかというと、具体的にどうなる、というわけでも、たぶん、ない。

明日以降、外出禁止令が発令されなければ、観光に支障が出ることはなくなるかもしれないが、具体的に治安がよくなるのか、とか、ツーリストバスは動くのか、とか、そういう状況は現時点では分からない。

(追記)国王声明概要については、在ネ日本大使館からいただいた訳文を こちら に掲載しています。

今夜19時に国王声明発表予定

テレビニュースによる字幕情報によると、ネパール国営テレビ(NTV)にて、ネパール時間の今晩19時(日本時間の22時15分)、国王が何か声明を発表するとのこと。

この声明により、今後の情勢が分かってくるかもしれない。

GWの旅行をキャンセルしようかどうか迷っている皆さん、もしかすると、何か動きがあるかもしれません。キャンセル手配はもうしばらくお待ちを!

リングロード外(外出禁止令が発令されていない地域)にいる何名かの知人(ネパール人)からの情報によると、リングロード(約20kmの環状道路)一周、群集が取り囲んでいるとのこと。リングロードは、本来なら、今日の外出禁止令発令地区になるが、この情報が本当であれば、すごいことになっている。

私の家から歩いて15分ほどでリングロードにたどり着くが、外出禁止令が出ている今、確かめに行くことは出来ない。

電話

私の日本の家族4人(父/母/私/妹)は、3ヶ国4ヶ所に暮らしている。

家族同士の連絡はもっぱらメールを使っているのだが、もともと筆不精の父と妹。私が単身赴任中の父と直接メールでやり取りするのは年に1~2回あるかないか程度だし、妹もまた、最近は1ヶ月に1回連絡をくれればよい程度。しかし、とりあえず実家にいる母を基点にして、電話連絡は取っているので、母がそこから得た情報を、スピーカーとして家族に伝える役目を果たしている。母と私はほぼ毎日、メールでどうでもいいことを連絡しあっているが、電話で話すことはめったにない。

そんな母から、かなり久々に昨晩電話があった。

ネパールの情勢が不安定になっているときでも、それを知っていながらほとんど心配もすることもなく、相変わらずどうでもいいメールを送ってくる(新聞の国際面やネットでネパールのことについてはチェックしているが、情勢不安定のニュースが日本で流れているときでも、私がいつも『別にこっちはたいしたことないよ』というものだから、どんなときでもほとんど心配などしていない)母だが、さすがに今回は、心配になって電話をしてきたのだろうな、と、当然のごとく私は思った。

しかし、父と妹の情報と、自分のことを延々20分ほど話し続ける母。とりあえず、聞き役の私。そして、一通り話しが尽きた後、そろそろ、こちらの情勢を気遣う話題になるのかと思ったが、一向にそういう話題にはならない。

おかしいなあ。母は私のブログも毎日見ているようだし、今のネパール情勢を知らないはずはないんだけどなあ、と思いながら、私のほうから切り出してみる。

で、今日電話してくれたのは、こっちの情勢を心配してってわけじゃないの、ね?

すると母は付け加えるようにこう言った。

大変そうなことにはなっているみたいだけど、でもいつも、貴女は、こっちは別になんともないよ、って言うじゃない?だから、別に何も心配もしてないんだけど。なんともないんでしょ?

私、電話口で、苦笑。確かに母の言う通り。つまり、昨晩の電話は、私を気遣ってではなく、最近電話をしていないからと、たまたまかけてきただけだった(苦笑)。

その後、「それはそうと、知ってる?63年ぶりに日本に帰国した、元日本兵のニュース。昨日新聞見てなくて、今日知ったんだけど」などという、話題を出してくる母。「私なんて、最近ずっと家でNHK見てるから、そんなニュースとっくに知ってるわよ」と自慢しておいたが、そんなこと、わざわざ国際電話でネタにする内容か?

そういえば昨年2月、一週間ほど通信が遮断されていて、メールが送れないことがあった。お互いに2~3日メールがないと、最近ずっとメールがないねえ、などと言ってしまうぐらいでもあり、ネパールの情勢も情勢だったので、何日も私からのメールがないと、さぞかし心配しているだろうと、大使館にお願いして、無事でいる旨の報告を、日本の実家に入れてもらったことがある。

しかし、そのときも実は、私からのメールが途切れたことに対して、特に気にも留めていなかったことが、後日判明した。

まあ、必要以上に心配されても困るので、このぐらいのあっけらかんさが、海外に住む私にとっても妹にとっても、助かっているのだが。

外出禁止令継続中

4月に入って、このブログの(延べ)アクセス数が急激に増えた。以前は、いっても日に200程度のアクセスだったのだが、最近は連日500前後のアクセスとなっている。それでも他の人気ブログに比べればささやかなものではある。でも、私が発信している、主観も混じった内容ばかり書いているこんな情報が、<ネパール好きな/ネパール旅行を検討中の/元ネパール在住者でネパールが気になっている>人たちの、現地情報のひとつとして参考になっているようであれば、私としても嬉しい。

ということで、とりあえず近況報告。

20日午前2時~午後8時までカトマンズ(リングロード内)に出されていた外出禁止令は、午後8時直前時点で延長が発表され、午前3時までとなった。つまり、連続25時間の外出禁止令となったわけだ。

その後、午前3時~9時までの6時間一時解除となったが、その後、本日21日、午前9時~午後8時まではまた布かれている。

私の住んでいる付近は、いたって静か。時々ヘリコプターの音がすると、何か起きたか?と思わず空を見上げてしまうが(2001年6月1日におきた前国王一家暗殺事件の時、通常では聞こえるはずもない夜中に、ヘリコプターが飛び交う音が聞こえたことがあった。それ以来、ヘリコプターが空を飛ぶと、何か動きがあったか?と反応してしまう)、今のところ、特に変わった情報は聞いていない。

昨日はほぼ全便欠航となった国内線も今日は飛んで、昨日TG便にて到着した私たちのゲストも、無事ルクラへ飛んでいった。

他のゲストもみんな山の中(トレッキング中)のため、カトマンズに滞在しているゲストに逐一近況を報告する必要もなく、私にとっては、のんびりとした1日の始まりとなった。

しかし、ネパールの情勢はといえば、いまだ不透明で落ち着かない。

2006年4月20日木曜日

外出

20日20時まで予定されていたカーフュー(外出禁止令)は、21日午前3時まで延長になったのだが、昨晩20日の19時45分時点まで、私はそのことを知らなかった。

昨晩19時半頃から、私が住む地区では停電になっていたからだ。夜20時頃から呼びかけられていたブラックアウト (電気を消して抗議する行為。何に抗議するのかというと、今回の場合は、デモ中に発砲されて民衆から死者が数名出たことに抗議する目的だったらしい) に向けて、故意に停電にさせたのかどうかは不明だが、とにかく停電になり、つけっ放しにしていたテレビもラジオも停電とともにブチッと切れてしまった。

外出禁止令が解除になる20時には、一度タメル(旅行者が集まるエリア)に行く予定で、近所に住むガイドが私を迎えに来ることになっていた。明日からのトレッキングの簡単な打ち合わせとガイド紹介をしておくためだ。ゲストは明朝5時半にはホテルを出発する。外出禁止令が解除になる20時過ぎに会っておかないと、明日の早朝に会って打ち合わせをすることなど、事実上不可能だ。

だから、19時半に停電になったときは、20時に外出する用意を始めるよいきっかけにもなり、暗闇の中身支度を整えていた。

===

19時45分頃になって、昨晩からタメルに待機しているスタッフから連絡が入った。20時に解除になる外出禁止令は、午前3時まで延長になったというのだ。テレビの字幕スーパーに流れているからテレビで確認しろ、と言われたのだが、運悪く停電中。確認の術がない。

その直後、大使館経由の緊急連絡が、携帯メッセージに入る。『カーフューが20時に解除されることなく、3時まで延長になった』とある。『外出はしないように』とも、書かれている。一応、『了解』との返事を送っておく。

でも、あと10分後にはガイドが迎えに来る。同じエリアに住んでいるガイド宅も、今は停電中だから、カーフュー延長のニュースは知らないはずだ。

まったく、どんなときにも段取りというものが全くない国。外出禁止令という重要な情報ぐらい、早めに決定して、早めに告知してほしい。解除直前になって報道機関を通して延長の情報を流しても、停電区域では、一般市民が情報を入手するのは困難だ。

もう、知るか。延長を知らないフリして強行外出するしかない。

そうこうしているうちに20時になって、ガイドが迎えに来た。彼もやはり、カーフューが延長になったことを知らなかった。ダメもとで行ってみよう、ということになり、家を出発することになる。

===

時刻は20時を少し過ぎたところ。通常、カーフュー発令中は国軍が交差点ごとに警備にあたっていることが多いようなのだが、家を出発してからかなりの距離を走っても、警察にも国軍にも遭遇しなかった。カーフュー延長の情報は、彼らにも行き届いていないのかもしれない。暗闇の中街を歩く一般市民もちらほらいて、普通の夜よりは、多少通行が少ない程度という雰囲気でしかなかった。メインの通りから一本中に入った道では、店のシャッターなどもけっこう開いている。きっと、20時にカーフューが解除となったと思い込んで、店を開けたに違いない。

しかし、王宮近くまで行くと、各地に装甲車が停まっており、警戒する国軍の数がいきなり増えてきた。暗闇の中の装甲車、不気味だ。

タメル近くまで来て、初めて検問を受ける。武装警官からカーフューが延長になったことを知らないのか、と注意されたが、ガイドの免許証と私のパスポートを見せることにより、すんなり通行を許可してくれた。

===

その後、1時間ほどで用事を終え、21時頃、家がある方面に引き返す。この時間帯になると、さすがにカーフュー延長の知らせが一般市民にも国軍にも行き渡ったと見え、自宅までの道のりで、外出している人には遭遇しなかった。

道中、なるべく裏通りを選んだつもりだったのだが、途中2ヶ所、国軍に止められる。1ヶ所ではすぐに通行を許可してくれたが、家の近所の検問では、かなり長いこと止められてしまう。私たちの家がある方向が、連日大規模な抗議行動が行われている方面の手前に当たるからだ。しかし、事情を話し、身分証明書を見せることで、通行を許可してくれた。

そんなこんなで、カーフュー中の強行外出を終えた。

この時期の旅行は・・・

(つづき)

TG便で到着した日本人は、それほど多くはなかったとのことだが、その中に、昨年7月にオフィスを訪問してくれた年配の日本人男性がグループで来ていて、空港に他のゲストを迎えに行っていた私たちのスタッフは、偶然にも、懐かしい再会を果たしたということだった。

その男性はいつも、ネパール在住日本人夫妻経営の古い旅行会社を利用して、トレッキングやクライミングに来られている方。ヒマラヤン・アクティビティーズ利用者ではないのだが、昨年、ふとした偶然がきっかけで、何度か私たちのオフィスにも足を運んでくださった。そしてその後も偶然が重なった。ヒマラヤン・アクティビティーズを利用してくださった方の、古い知り合いだということが判明したのだ。いろんな方面からの不思議な縁を感じた方だった。

という余談はさておき、この男性(とそのグループ)は今回、カンチェンジュンガ登山のため、再来ネされたとのこと。

つまり、何が言いたいかというと、旅行をキャンセルされる人も多いこの時期、こういう情勢でも情報を正しくキャッチし、予定通りネパールを訪れる方もいるということ。

とはいっても、今の状況がすぐに改善されない場合、GWの旅行キャンセルは増えそうだ。

空港へ

20日、空港が封鎖されたりするのではないか、と密かに思っていたのだが、国際線は運航している。国内線は欠航。

今日は、ゲストがTG(タイ航空)便にて空港に到着する日。通常、外出禁止令発令時でも、早朝は解除となっていたり、私たちと取引のあるドライバーが外出許可証を取得していることがあるので、何とか空港ピックアップもできていたのだが、今日はかなり厳しい状況だった。今回のカーフューは、途中解除となることなく、深夜から夜までの連続18時間発令されたからだ。

発表されたのが昨日19日の夜。空港ピックアップを担当している空港入場パスを持つスタッフはすでに帰宅していたのだが、このままだと明日、身動きが取れなくなる、ということで、夕食を食べてくつろいでいた夜8時、急遽タメル (ツーリストが集まるエリア。宿、旅行会社、土産物屋が密集している) にあるオフィスまで戻り、そこで夜を明かすことになった。

夜、家を出発してくるときには、彼の8歳になる息子に、パパ~、もうすぐカーフューなのにどこに行くの~。警察に捕まっちゃうよ~。パパ~、デモには絶対に行かないで~。パパ~。と大泣きされたらしい。気の毒なことをした・・・。

さて、こんな状況で夜、またタメルに戻ってきたのは、タメル地区内だと、外出を大目に見てくれることもあることと、オフィスから空港へ行く臨時シャトルバスの発着地まで、徒歩5分ほどの距離でもあるので、ネパール人であっても通行を許可してくれるだろう、という判断からだった。

しかし、今回に限ってはなんとなく状況は厳しそうだ、という連絡を、一夜明けた今朝6時頃、タメルに泊り込んだスタッフからもらう。昨夜のニュースで、今回は報道関係者にも外出許可証が出されない、といっていたのだが、それは本当で、それぐらい規制が厳しいらしいのだ。親しい大手ホテルの空港送迎スタッフと連絡をとったところ、彼らであっても、今日は通行を許可してくれるか分からないような状態だ、と言うのだ。大手ホテルスタッフの通行が許可されなければ、星の数ほどある旅行会社の中のひとつである私たちのスタッフなどが空港に向かおうとしたら、けんもほろろにアーミーから引き返しを命じられるのがおちだろう。

通常、私は裏方に徹している。でも、状況が状況である今日は、ガイジンである私が出て行く覚悟もしていたのだが、自宅にいる今、いくらガイジンだからといってそう簡単に外出を許可してくれるはずはない。それに、ガイジンとは言っても、一般人でしかない私には、特別待遇などない。

あれこれ考えてもしょうがないので、のんきにアチャール作り (ネパールの漬物といわれるものがアチャール。外出できないこんな日には保存のきく発酵アチャールを作るのが習慣になってしまった) を始めることにする。こんな状態では、心配しても何もならないし、ゲストの空港ピックアップは、私たちにとっては大切なことでも、はたから見ればどうしても外出しなくてはいけない緊急事態、というわけでもないため、もう、あきらめるしかないからだ。

それからしばらくして、10時頃また連絡が入る。オフィス前にいたポリスに話をつけて、シャトルバス乗り場(タメル入り口、Himalayan Bank、Fire&Iceなどがある周辺)までの通行を許可してもらったとのこと。そして、バス乗り場到着後、そこにいた女性のアーミーに事情を話し、シャトルバスの乗車も許可してもらえたとのこと。

以下、スタッフから携帯電話を通じ中継でもらった情報。



しばらく待ってやってきたバス車内にはすでにたくさんの外国人ツーリストが乗っており、空港到着時には満員状態だったらしいが、さすがに今日はネパール人の乗客はほとんどいなく、彼(私たちのスタッフ)ともう1人だけだった。

写真は、バンダ(スト)、外出禁止令発令時に臨時運行される、空港~市内各地を走る臨時バス。平常時の運行はない。先日撮影。

タメルを出発後、ラジンパト(大手ホテル:ラディソンホテルやシャングリラホテル、日本大使館、アメリカ大使館などがある通り)を北上し、リングロードへ出る。リングロードの外では、かなりの群集が集結しているのが見えた。

その後、リングロードを走り、チャベル(チャバヒル)へ。ここを東に進むと、ボダナートや高級ホテルのハイヤットなどがある。シャトルバスはハイヤットを目指したようだが、大群衆により通行できず、そのままもと来た道を引き返すことになってしまった。

バスは、ゴウシャラを通過し、空港へ。

正午過ぎ、空港着。いつもは客引きや迎えに来た人たちでにぎわう国際線到着ゲート付近だが、本日は、閑散としており、迎えに来ているネパール人は彼も含めて10人もいない。空港駐車場にも、タクシー(黒ナンバー)、私用車(赤ナンバー)の駐車は一台もナシ。停まっているのはシャトルバス、国軍、警察の車、そして、青ナンバーの外国人用公用車(大使館等)の車が2台ほどのみ。

先日の外出禁止令中も空港ピックアップがあったのだが、その時には、迎えに来ている人たちも多少いたし、許可証を持っているタクシーなども待機していた。こういう過去の状況から比較しても、やはり今回は異常だし、厳しい状態であることがよく分かる。

こんな状況であるにもかかわらず、国際線は空港に到着している。ツーリストも空港に降り立っている。でも、タクシーが全くない今日の状態。移動に困った到着客で、空港はこの時間混雑しているらしい。

2006年4月19日水曜日

20日、外出禁止令

夜のニュースによると、やはり20日、外出禁止令が布かれることになった。

20日午前2時(夜中)~午後8時(20時)まで。

通常、夜間外出禁止令が出ても早朝一時的に解除となる場合が多いのだが、今回は連続18時間。

通信だけは、遮断されないでほしい。

2006年4月18日火曜日

失くし物

用事があって、今日も含め最近3度ほど警察署に足を運んだ。 (理由は、いつか、簡潔にまとめられることができれば、このブログにも書きたいと思う。ちなみに、現在のネパール情勢には、全く関係のないこと)

私の担当をしてくれる穏やかな婦警さんの席の後ろに、ネパール人のナガリクタ(住民カード)や外国人のパスポートが並べて入れられているガラスケースがある。今日何気なく見ていると、『日本国』と書かれたパスポートも入れられていた。

どこかで拾われ届けられたものなのだろうか? 顔なじみになった婦警さんに聞いてみると、そうだと答えてくれた。そして、彼女はおもむろにケースの鍵を開け、日本のパスポートを取り出し、見てみる?と差し出してきた。

いいのかしら?と聞くと、いいわよ。というので、パスポートを見せてもらうことにした。

1978年生まれ、兵庫県に本籍がある男性のものだった。パスポートがなくなって、きっと困っているだろう。

いつ届けられたのか聞くと、だいぶ前だという。ビザを見れば、いつ入国したか分かるわよ、と婦警さんが言うので、そうか、と思い、ビザのページを探すと、かなり前に発行されていたスタイルのツーリストビザが貼付されているページを見つけた。上から押されているスタンプを見ると、1998年か1999年との文字が見える。インクが薄れて、8か9かは見分けがつかなかったが、いずれにしても随分前に紛失したということは確かだ。ふと思いついて、パスポートの有効期限を見ると、2000年となっていた。

ということは、もう、とうの昔にパスポートを再発行してもらい、帰国して、ネパールでパスポートを失くしたことなどすっかり忘れた日常を送っているに違いない。新しいパスポートを使って、その後何度か海外に出ているかもしれない。6年前に有効期限が切れたパスポートが今更持ち主の元に返されたところで、何の役にも立たない。

でも、失くなったはずのパスポートは、異国の警察署内の小さなガラスケースに並べられ、持ち主が現れるのを数年以上待ち続けている。もう、誰も探しに来ないのに。そう思うと、なんだか気の毒になってきてしまった。この忘れられたパスポートが。

大使館に届けてあげれば、持ち主探しは簡単にできるだろう。でも、有効期限が切れて6年もたったパスポートを、日本まで送り、持ち主に返すことなど、してくれるのだろうか?廃棄処分にされるのがおちかもしれない。

もし、廃棄されるのだとしたら、この持ち主がネパールを旅行した証として、ここにずっと置かれ続けても悪くはないかな、と思い、そのまままたケースの中に戻しておいた。多分いつの日か、処分される日が来るかもしれないけれど、それがこのパスポートの運命だったのだろう。

2006年4月17日月曜日

こんな情勢でも

いよいよ、今週あたり大きな動きがあるのか?という状態になってきているようだ。

デモなどに参加しない限り、一般市民や外国人が危険な目に遭うことはまずないのだが、生活者の立場から言うと、野菜の価格が急騰し、ガソリンは売ってくれなくなり(つまりそれは、カトマンズと地方を結ぶ陸路が稼動していないから物流が止まっているわけで、どう考えても正常ではないことが分かる)、銀行は(一時的に)封鎖され、なんとなくイヤな雰囲気になってきたなあ、という感は、とてもする。

こういう状態(4月6日からの連続スト状態)のとき、車両を走らせるのは好ましくないのだが、私はガイジンだし、バイクなら問題ないでしょ、と思っていた。でも、昨日ぐらいから、街を走る車両の数も減った気がして、バイクでの移動もそろそろ自粛したほうがよいかな、という気にもなってきた。その前に、ガソリンが入手できないので、この状態が続くと必然的にバイク移動はできなくなりそうだが。

今日明日でこの状況が解決しない場合、今週20日には、7政党が呼びかける大規模な抗議行動 (今の状態よりも『大規模な』というぐらいだから、かなり大掛かりな抗議行動になることが安易に予想される) が、カトマンズ周囲でも行われる予定とのことで、情勢的にはいよいよ切羽詰ってきている感じがする。

でも、そんな中でも、幸せいっぱい結婚式をあげ、派手にパーティーをする人たちがいるから、ネパールジンの感覚は、やっぱり私には一生理解できないのかも、と思ってしまう。

4月14日から始まったビクラム暦の1月に当たるバイサク月は、結婚の儀式をあげるのに適した月といわれている。中でも、特に適した日がありカレンダーにも記載されている。今月(4月半ば~5月半ばのバイサク月中)は、そういう日が11日ある。

今日もそう。知人が結婚式をあげるらしい。日取りが決まったのは2週間ほど前。儀式のあとは、盛大なパーティーをするらしい。

うちの近所でも、今日結婚式の家があるようで、ヘタクソな音楽隊の演奏が、ドンチャカ聞こえていた。

街にはあまり車両も走っていない状態で、音楽隊も然り、遠くからの招待客も然り、どうやって移動してくるのか?と他人事ながら心配してしまうのだが、それでも通常、律儀に招待客は集まってくる。

どんなに情勢が不安定になっても、祭りや儀式のときには、(すべてを忘れて?)そちらに専念できるこちらの人たち。ある意味、感心してしまう。

2006年4月16日日曜日

タメルにて



4月6日以降、全国各地で国王の独裁政治に対する抗議活動が起こっているネパール。昨日から、カトマンズ周辺でも活動規模が大きくなってきたようだ。今日で11日目のネパールバンダ(全国規模のストライキ)、内、4日間は外出禁止令も出ていた。

本日、タメル(旅行者が集まる1k㎡ほどのエリア。外国人向けの土産物屋、旅行代理店、宿などが密集する地域)でも抗議行動が昼前1時間ほど行われた。

ホテル、旅行、トレッキング業界等の各団体が示し合わせて実施されたもの。



観光業も国の外貨収入の大きな割合を占めるネパール。しかし、2001年6月1日におきた前国王一家殺害(暗殺?)事件以降、旅行者数は一気に減った。旅行業界にとっても、苦難の数年が続いている。

(写真は、ヒマラヤン・アクティビティーズのスタッフによる撮影)

2006年4月14日金曜日

養豚場



ネパール公暦で今日が新年のネパール。ビクラム暦2063年元旦。

夕方、ボダナート方面(目玉が描かれたチベット仏教寺院)へ行ってみた。バイクで約10分。その後、近くの小高い丘の上にあるコパン・ゴンパ(コパンという地域にあるチベット仏教の僧院)まで足を伸ばす。(残念ながら、開園時間が終わっており、中には入れず。写真は、コパンゴンパ近くから見えた夕焼け)

その帰り道。メインの道を帰らずに、郊外の田園風景を楽しみながら、道を探しつつ、自宅がある方向へ向かっていくと・・・。



田んぼが広がる中、なんとなく獣臭が強い地域に出てきた。牛でも飼っているのかと思って辺りを見ると、そうではなくて、豚、豚、豚。たくさんの豚小屋が連なっている場所だった。豚の世話をしていた人に話を聞くと、そこで育てられた豚は、一万ルピー前後で売りに出されるという。養豚場と言うわけだ。



とにかく、どこをみても、豚豚豚。

母子セットで豚小屋に入っていて、おっぱいを飲んでいる子豚の集団。





子豚同士激しくけんかをしていて、ブヒブヒうるさい小屋と、隣でそ知らぬ顔で座っている母豚。

黒白まだら模様の、オシャレな豚も。



楽しい発見だった。臭かったけど。

2006年4月12日水曜日

ホーリー≒抗議行動?

毎年3月頃、ホーリーという水&色粉かけ祭りが行われる。簡単に言うと、水や色の粉を周りの人に掛け合って、楽しむ祭り。祭りの一週間前から、水かけが解禁となる。見知らぬ人にかけてもいいので、街を歩いていると、不意に水鉄砲で水をかけらることもよくある。かけるほうは楽しいかもしれないが、かけられるほうは非常に迷惑。

さて、先月のホーリー前日、地元キャンパスの横をバイクで走っていた私は、キャンパスにたむろっていたバカ学生に、思い切り水風船を投げつけられた。別に、ぬれるのはかまわないが、かなり強く上半身に当たったので痛かったし、ハンドルを取られ、転びそうになった。あぶなんだいよ、ばか。

その姿を見て、喜ぶ若者。バイクをとめて、仕返しにレンガでも投げつけてやりたくなったぐらいだ。

レンガ?

そこで、ふと思った。

カトマンズで行われる抗議行動(デモ)でのお約束事。それは、若者(学生)たちのレンガ合戦。警察や国軍に向かって、レンガを投げつけて楽しむ。その姿には深刻さは全くなく、お祭り騒ぎにしか見えないのだが、水風船を投げる若者を見ていて、デモ中レンガを投げる若者の姿がダブった。同じだ。やっぱり彼らは、デモもお祭り気分で楽しんでいたのだ。息抜きが少ないこの国での、レンガ合戦はうさを晴らすいい機会にもなる。

外出禁止令が発令されていた4日間。カトマンズ郊外で行われていたデモの様子を、ニュースで見ていたら、やっぱりいた。楽しそうにレンガを投げている若者たち。彼らの表情は、ホーリーの日に水風船を投げていた若者たちのそれと、全く変わらない。楽しそう。手に持っているものが、レンガか水風船か、という違いだけ。どうせなら、デモのときも水風船でもなげときゃいいのに、と思う。

余談。抗議行動後の道には、砕け散ったレンガが散乱しているときがある。よくもまあ、重いレンガをこれだけ準備したものだ、と思う。『風が吹けば桶屋が儲かる』というが、この国では、『デモが出ればレンガ屋が儲かる』のかもしれない。

2006年4月11日火曜日

ひと昔前の日本の学校を舞台にした漫画やドラマの中に、よく出てきていた罰。たとえば宿題を忘れた生徒に、水が入ったバケツを持たせて授業中廊下に立たせる/うさぎ跳びでグラウンド一周させる、などなど。

これに似たような罰が、ネパールにもある。

自分の両耳たぶを指でつまませて、立ったり座ったりを繰り返させるのだ。

大人が、子供に罰を与えるときに、この動作をさせる場合もあれば、悪さをした子供が怒られる前に、「この通りもうしません。ゆるして~」と反省している証としてこの動作を自らすることもある。

さて、ここ何日かの新聞には、抗議行動の様子を写した写真が特集で何枚も掲載されている。今日のカンティプール紙には19枚の写真があったのだが、その中の1枚に、手で耳をつまんで立ったり座ったりの動作をしている若者2人と、それを眺める国軍兵の姿を写した写真が載っていた。

写真のタイトルは『外出禁止令発令中に街に出ていた若者2人に罰を与える国軍兵』。

デモ隊と警官やアーミーが衝突し、血みどろな写真が多い中、この1枚だけほのぼのしていて、マヌケで笑える写真だった。

日中外出禁止令4日目

いつも母屋サイト注意情報のページにアップしている、大使館からのお知らせを転載します。母屋サイトは、ファイルが保存してあるパソコンの不調により、しばらく更新できませんのであしからず。

===大使館からのお知らせ(11日朝付)転載===

外出禁止令の時間変更ネパール政府からの外出禁止令の時間変更のアナウンスがあり、本日4月11日の外出禁止令は午後0時から午後5時までと変更となりました。同時間帯における外出は控えるようお願い致します。緊急を要する外出が必要になりましたら警察(100番)へ連絡し必要な手続きを行ってください。又、バクタプルエリアにおきましては外出禁止令は解除となりました。

===以上===

なんだ、みんなやればできるじゃないの!と思うのは、外出禁止令発令時間直前になると、それまで外出していた人たちが、すーっと街から消えること。時間厳守が非常に苦手なネパール人たちだが、外出禁止令発令に関しては、時間厳守で守れるらしい。

2006年4月10日月曜日

外出禁止令3日目

いつも母屋サイト注意情報のページにアップしている、大使館からのお知らせを転載します。母屋サイトは、ファイルが保存してあるパソコンの不調により、しばらく更新できませんのであしからず。

===大使館からのお知らせ(10日夜付)転載===

外出禁止令の発令本日、ネパール政府からの外出禁止令の時間変更のアナウンスがあり、4月10日の外出禁止令は午前11時から午後6時までとなっております。同時間帯における外出は控えるようお願い致します。緊急を要する外出が必要になりましたら警察(100番)へ連絡し必要な手続きを行ってください。

===以上===

スト5日目、外出禁止令3日目ともなってくると、さすがにうんざりしてくる。

ネパール在住者の私などは、家の大掃除をしたり、手の込んだ料理を作ってみたりと、普段できないことをするいいチャンスにもなるわけだが、この時期、運悪くカトマンズに滞在している旅行者は、とても気の毒。

タメル内など、多少は歩き回れるにしても、遠出はできない。3日間、ホテルでの軟禁生活状態を強いられるわけだ。

2006年4月9日日曜日

モモ

ネパールに来たことのある方なら、すぐにイメージできると思うが『モモ』と言う名の料理がある。

わからない方のために簡単に説明すると、蒸餃子のようなもの。小飽子のような形のものもあれば、日本の(中国の)餃子のように逆半円スタイルのようなものもある。

一般的には、マサラ(カレー味スパイス)で味付けした水牛の肉を厚めの餃子の皮で包んで蒸し、トマトやゴマのソース(少し辛い)をかけて(つけて)食べる。

日本人に『モモ』について説明する場合、上記のように言うと、たいてい簡単にイメージを作ってもらえる。日本人向けのガイドブックなどにも、だいたいこのような説明が書かれている。

しかし、日本語版ロンリープラネット(以下ロンプラと表記)の説明は、違った。

外出禁止令2日目の今日、あまりにも暇なので、ロンプラ・ネパール編日本語版を、隅から読んでいるちに、[基本情報]の[食事&飲み物]のページまでたどりついた。ネパール料理メニュー解説を順番に読み進め、『モモ』の部分を読み始めると、そこにはこう書かれていた。

モモmomo-練り粉の皮に包んだ肉や野菜を蒸した、代表的なチベット料理。

ここまでは、日本人向けのガイドブックとほぼ同じ説明。問題?はその次。

中国料理の餃子や、イタリア料理のラビオリに似ている。

ラビオリ?

一瞬考えた後に、ああ、ラビオリ!と、妙に納得してしまった。

全世界の旅行者を対象に発行されているロンプラは、餃子になじみが薄い外国人にもわかるように、ラビオリを持ち出したのだろう。なるほど、そう持っていくか、という感じだ。

でも、やっぱりよくよく考えると、納得しきれない感も、多少残る。

9日外出禁止令発令

いつも母屋サイト注意情報のページにアップしている、大使館からのお知らせを転載します。母屋サイトは、ファイルが保存してあるパソコンの不調により、しばらく更新できませんのであしからず。

===大使館からのお知らせ(8日夜付)転載===

外出禁止令の発令ネパール政府は、カトマンズ市・ラリトプール市のリングロード内及びキルティプル・バクタプルの一部エリアにおいて、4月9日午前7時~午後8時までの間、外出禁止令を発令致しました。同時間帯における外出は控えるようお願い致します。尚、緊急を要する場合は警察(100番)へ連絡をし必要な手続きを行ったうえで外出するようお願い致します。尚、現在も携帯電話は不通の状態になっており有線電話のみ使用可能となっております。

以上

2006年4月8日土曜日

スト&外出禁止令中のとある1日

4月6日からのスト実施。4月8日からの外出禁止令発令。どれも、ネパールの民主化運動にかかわること。歴史に残る日々なのかもしれない。

でも、ガイジンである私の生活はといえば、ネパール国民には申し訳ないが、民主化が成功しようがしまいがあまり興味はなく(過ごしやすい国になってくれれば、正直言ってどちらでもよい)、それよりも、ここ何日かで突然集中して襲ってきた個人的トラブルに頭を悩ませていた。

その中のひとつが、次のこと。でも、とりあえず解決できたので、いまこうしてブログ発信もできている。

===

2001年末の帰国時に買い換えたノートパソコン。どこに行くにも、持ち歩いている。カトマンズ市内はもちろん、日本帰国時にいつも一緒。遠いところでは、日中温度が-20度にもなる極寒の地、冬場のフェアバンクス(アラスカ州)にも連れて行った。(もちろん、私たちがオーロラを見ている間、パソコンはホテルの部屋に置いておいたが)

別に、たいした機能を使っているわけではないのだが、ないと不便なこのノートパソコン、命の次に大切だと言っていいかもしれない。しかし、昨年半ば過ぎからガタが出始め、触ってもいないのに、突然蝶番(ちょうつがい)が壊れるなどの外傷をきたしていた。中でも深刻なのは、ACアダプタの不調。今年に入って2回治療(修理)に出していた。

そして、今月に入ってまた接触不良の兆候が現れ始めた。4月6日からのスト中に壊れてしまうと、スト明けまで修理に出せなくなり、パソコン無しの退屈なストライフを過ごさなければいけない。しかも、8日には外出禁止令が出されると予測されている(実際に午前10時~発令された)。これは、何が何でも、スト突入前に完治させておかないと、と思い、先日修理に出していたのだが、こともあろうに修理後4日目、スト2日目の4月7日午後、使用中にまた突然故障してしまった。パソコン本体に電気が通じなくなってしまったのだ。

今回のストは9日まで予定されているので、修理に出せるのは早くても10日以降。この間、知人宅でネットだけ使わせてもらおうかと考えていたのだが、本日早朝、それもできなくなることを知る。

午前10時~夜まで、外出禁止令が布かれることが発表されたからだ。外出禁止令(Curfew:カーフュー)が出されると、その名のとおり、外出ができなくなる。つまり、家での軟禁生活を強いられるわけだ。

パソコンは使えず、外出もできず、携帯電話も止められている(7日早朝より通信不可となっている)中で過ごす1日を、瞬時に想像してぞっとする。そんな一日は絶対に耐えられない。

ニュースで外出禁止令の情報を得た直後の朝7時半、私は覚悟を決めた。自宅からバイクで約15分ほどの場所にあるオフィスのパソコン(デスクトップ)を、なんとしてでも自宅に持ってくるしかない。外出禁止令発令前、2時間半前のことだった。

以前のブログにも書いたことがあるが、こちらの人はバイクで何でも運ぶ。私も、スクーターの足元に大きな荷物を無理やり置いて、運ぶこともよくある。ハードディスクとスクリーン、スクーターでも運べるはずだ、と確信し、家を出発した。

そしてなんとか、持ち出し成功。自宅にデスクトップパソコンスペースを作り(ついでに模様替えもし)、外出禁止令発令中でも退屈しない生活環境を確保できたというわけだ。

この後、午後9時まで継続して布かれる外出禁止令。この調子だと、明日も継続しそうな気配を見せている。

2006年4月5日水曜日

8日外出禁止令発令

パソコンの調子が悪く、メール返信、サイト・ブログ更新遅れています。

今日8日、午前10時より外出禁止令が出されました。

現時点で、携帯はとめられていますが、固定電話は生きています。でも、今後、遮断の可能性あり?かも。

とりあえず、事務連絡でした。

(追記)

以下、いつも母屋サイト注意情報のページにアップしている、大使館からのお知らせを転載します。母屋サイトは、ファイルが保存してあるパソコンの不調により、しばらく更新できませんのであしからず。

===大使館からのお知らせ(8日付)転載===

外出禁止令の発令

本日、ネパール政府は、カトマンズ市・ラリトプール市のリングロード内及びキルティプル・バクタプルの一部エリアにおいて、午前10時~午後9時までの間、外出禁止令を発令いたしました。同時間帯における外出は控えるようお願い致します。尚、緊急を要する場合は警察(100番)へ連絡をし必要な手続きを行ったうえで外出するようお願い致します。現在携帯電話は通話不能な状態であり、有線電話のみ通話可能となっております。 万が一、事件などに遭遇した場合には警察及び大使館へ届けていただくようお願い致します。

2006年4月4日火曜日

英単語

カトマンズなどの都市部では、ネパール人同士、ネパール語を使った会話の中にも、英単語が使われることがよくある。もう、その単語自体が、ネパール語になってしまっているように、使われる。

たとえば、相手に迷惑をかけてしまって、謝るときなどに、

「ごめんなさいね。ディスターブ(disturb)だったでしょう?」

などと使ったりする。

以前、上記のセリフを、村出身で、学校に一度も通ったことのない女性に、言われたことがあった。彼女はネパール語の読み書きもままならず、英語はもちろん一度も習ったことはないのだが、ディスターブ(disturb)という単語は、いつも当たり前のように使っていた。ディスターブに相当するネパール語の単語が、ちゃんとあるにもかかわらず。

私たちが運営する宿で働いている女性スタッフ19歳と会話をしていても、英単語がらみで面白いシーンに遭遇することがよくある。

彼女もまた、村出身で、生まれてからこれまで一度も学校には通ったことのない子だ。ネパール語の読み書きは、農作業の合間に独学で覚えたらしいのだが、英語においては、英語の『え』の字も知らない女の子だった。だから、カトマンズに出てきたばかりの頃は、彼女と会話をするときは、純ネパール語を用いなければならず、単語選びに気を使った。

たとえば、部屋の掃除を教えるとき。カトマンズでは普通に使われる英単語を交えながら説明しても、彼女は何も分からなかった。たとえば、

「トイレット(toilet)はこうやって掃除するのよ」

といっても、『???』 という顔をするので、『トイレット(toilet)』という単語を『バスルーム(bathroom)』と置き換えてみても、やっぱり彼女には通じない。普段めったに遣うことのない、該当ネパール語を使って、説明をしなおしたりもした。

また、

「トイレットペーパー(toilet paper)、ちゃんと用意した?」「これからそっちにいくから、外のゲート(gate)を開けておいてね」「今日はこれからゲスト(Guest)がくるから、ビジー(busy)になるわよ」

などといっても、やっぱり通じなかった。ちなみに、これらの英単語は、カトマンズでは多くの人が、英語と意識することなく普通に使う単語である。それが、彼女と話すときには全く通じないので、とにかくすべて純ネパール語で話さなければいけなかった。

大体どの単語にも同意味のネパール語があるから困らないのだが、さすがに、『トイレットペーパー』を伝えるのは大変だった。ネパール人は基本的に、用を足した後、トイレットペーパーは使わない。水がある場所では水、山奥の村などでは、石や葉っぱ、太い枝などを使って、お尻をぬぐう。(汚い話で恐縮だが、私も以前、村を訪れたとき、用を足した後、葉っぱでぬぐって過ごした経験がある) このような実情もあり、村から出てきたばかりの彼女は、『トイレットペーパー』という存在自体を知らなかった。だから、用を足した後ガイジンは薄い紙でお尻をぬぐうのだ、という概念から、理解させる必要があったのだ。

さて、そんな彼女と先日話していたら、難しい英単語をさらっと口にしたので、びっくりしてしまった。

「明日、ゲストが来るかもしれないから、部屋の準備をしておいて。でも、宿泊しないかもしれないから、がっかりしないでね」

という私の言葉に、彼女はこう答えたのだ。

「わかったわ。泊まるか泊まらないかは、コンファーム(confirm)じゃないのね」

思わず私は、え、今なんて言ったの?と彼女に聞いてしまった。今、confirmって使った?

すると彼女は、当たり前の顔をして、そうだけど?(それが何か?)という感じで、不思議そうに返答した。confirmという単語が、英語とかネパール語だとか、そいうことは別に彼女には関係なく、こういう状況のときに使える単語、として、カトマンズに出てきて8ヶ月の間に習得しただけのことだった。

その後、ゲストから送られてきた、彼女宛のはがきの話に話題が移った。以前、宿に長期で滞在してくれたゲストが、ニューヨークに行ったときに、宿で働いていた彼女宛に、はがきを送ってくれていたのだ。(お礼が遅れましたが、無事に届いています。ありがとうございます)

1ヶ月ほど前に、無事にカトマンズまで到着していたのだが、英語で書かれた内容を、彼女が分かるはずもなく、スタッフの1人が、ネパール語に訳して読み聞かせることになった。

『今私はニューヨークにいます』 『ニューヨークは、世界でも大きな都市です』 ・・・ニューヨークって言うのは、アメリカの大きなシティ(city)のことだよ。

『ここは、夜景がとてもきれいです』 ・・・ニューヨークっていうシティ(city)はね、一年中ティハール(ネパールで11月頃行われる光の祭)みたいに、夜になるとたくさんの電気が光るんだって。

ふーん、といいながら、分かったような、分からないような顔をして聞いている彼女。そんな彼女の顔を見ていて、私は、もしや、と思った。彼女の、腑に落ちない顔。もしかして、シティ(city)という単語の意味が、分からないからではないのか? そう気づいて、彼女に聞いてみた。すると案の定、彼女はシティの意味を、分かっていなかった。

コンファーム(confirm)やディスターブ(disturb)という単語は分かるのに、シティ(city)という単語は分からなかった彼女。日本人が持っている、英単語習得順序の概念から考えると、なんだかおかしいギャップ。でも、ここではよくある話でもある。