ブログ移転のお知らせ

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2016年4月29日金曜日

車道


カトマンズ各地で道路拡幅工事が始まり3~4年経つだろうか。

家々の外壁に軒並み破壊予告印がつけられたもののそのままになっていた自宅周辺も、去る2月初旬からついに工事が始まった。

2か月以上経った今もまったく終わる見込みはなく、細いながらも舗装されていた道には、土砂と岩が積まれひどい状態になっている。


拡幅工事はカトマンズのみならず、ネパール各地で行われているようだ。

この1か月半程の間に陸路で各地出かけたが、いたるところで目にしてきた。

たとえば、

カトマンズから南ネパール方面へ抜ける際の幹線道路。ムグリン~ナラヤンガート間。2月11日から始まった工事は今も続いている。


カトマンズ郊外の展望台、ナガルコットへ行く道も昨夏より工事中。道路脇の崖が見事に削られている光景があちこちに。


自然を破壊してまでさらに拡幅することには複雑な思いも感じるが、完成すれば便利にはなるだろう。

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ところで、自宅近所の道に話を戻すが。


レンガ敷きの、車が入れない細い小道があちこちに延びている。普段通らない道に初めて足を踏み入れて、迷路に迷い込んだ気分になりワクワクすることがある。道を進み、知っている場所に出て、ああ、ここに通じていたのか!と、感動したり。

でも、そんな路地の塀にも破壊予告の赤い印が書かれているのを発見してしまった。こういう味のある路地もなくなってしまうのは、残念だなあ。

2016年4月25日月曜日

修復中のドゥンゲダラ(共同水場)


当ブログでも何度も話題にしてきたタメルのドゥンゲダラ(共同水場)。

昨年の大地震で、向かいのホテルが崩壊し、この場に倒れ込み大きな被害を受けた。

前回の記事(2015年9月3日付)
しばらくは瓦礫が山積みになり、水場の機能を果たせていなかったのだが、一部瓦礫がよけられ、かろうじて水を汲めるようになったのが昨年夏ごろ。

水はけが悪く異臭が漂う中、瓦礫をよけるように、近隣の人が水を汲んだり洗濯をしたりする姿を見かけていた。

その後もなかなか修復工事は始まらなかったのだが、先月3月12日に、ついに着工。


≪2016年3月16日・修復工事着工から5日目に撮影≫




≪2016年4月25日撮影≫

冒頭の写真も本日撮影したもの。

瓦礫がかなり撤去され、周囲の塀も整備され始めている。

この工事着工のきっかけとなったのが、昨年末修復費用に充ててほしいと寄せられた、とある日本人の方々から寄付だった、と関係者の方から聞いている。

あの日から一年経ってしまったが、復旧に向け毎日作業が進められている様子に嬉しくなる。

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ビクラム暦(1月12日)で考える、地震1年の日に当たっていた昨日。

世界遺産、寺院、交差点、地元の人しか通らないような路地裏。あの日を思い出し、死者を弔うためあちこちで灯されていた灯明。

ここドゥンゲダラのそれはひっそりとしていて、他の会場のような派手さはなかったけれど、だからこそ、地元の人たちの真の想いが込められているように見えた。


≪2016年4月24日撮影≫

2016年4月24日日曜日

ネパール大地震から1年


本日、ビクラム暦1月12日。昨年の大地震から今日で1年。

2015年4月25日に起きた地震なので、海外のメディアや支援団体の多くが「4月25日」が1年、としてとらえているが、実際に地震を体験したネパール人たちにとっての1年は、ビクラム暦で巡ってくる。

節目となる今日、各地で様々な追悼イベントが行われていた。

地元のごく親しい人たちが集まり、灯明を灯し死者の霊を追悼するものから、事前にメディアで告知されていた大がかりな追悼ライブのようなものまで。

写真は、本日スワヤンブナート入口での様子。僧や地元住民たちが静かにろうそくに火をつけ、祈っていた。



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前日にはバサンタプルにて風船を飛ばす催しも行われていた。地震から2か月の時にも実施されていて、今回も同メディア主催のもの。


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ところで、この一年、今のネパールを自分の目で見ておかないと、という想いにかられ、時間の許す限り、あちこち出かけてきた。

その際、被災地の村でよく耳にしたのが「ナヤ・ネパール(新しいネパール)」という言葉。

昨年9月、7年越しに新憲法が公布された際によく使われた言葉でもあるのだが、地震後、新たな環境の中で日常を取り戻していった様子を「これぞナヤ・ネパール(新しいネパール)だね!」と表現する村の人がけっこういたのだ。

まだまだ復興にも程遠く、心身共に傷を負い癒えていない人も多いのが実情だが、明日から始まる一年が希望に満ちた「ナヤネパール」になることを願ってやまない。

2016年4月22日金曜日

村訪問2:カビタの実家(ドラカ郡シンガティ近く)

3月末のラスワ郡トゥロガウン村訪問に続き、4月初旬に行ってきたのは、ドラカ郡バル村。ここは、いつもオフィスでおいしい賄い食を作ってくれる、勤続6年目になる女性スタッフの実家。(彼女の嫁ぎ先の村には、震災1か月後に訪問している

昨年4月25日の本震での被害も大きかったようだが、さらなる打撃を与えたのが、5月12日発生の最大余震(M7.3)。村からも近い場所が震源地で、周辺で多数土砂崩れが起きたそうだ。

村の石造りの家はすべて崩壊。不幸中の幸いで、村にいて家屋の下敷きになって亡くなった人はいなかったそうだが、周辺の道を歩いていて、土砂の下敷きになり亡くなった方は何名かいると。

村人もよく通る、シンガティ村より先の最寄りの車道では、走行中のバスが土砂崩れに巻き込まれた。バスの中からは子供の泣き声がずっと聞こえていたが、余震も続き、土砂が常に崩れ落ちてくる状況で救出作業もままならず、助けたくても助けられない状態だったらしい。3日目にその声も聞こえなくなった、と、地元の人が淡々と語ってくれた。

実際に近くを通ってみて、確かに、間近に迫る、風が吹いただけで土砂が落ちてきそうな山肌に恐怖を感じる。



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村は、ガウリシャンカール自然保護区域内にある。道中、山の合間にうっすら白い嶺が見えていた。



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シンガティ村からメインの道を脇に入り、3つほどの小さな集落を通り過ぎて到着した今回の訪問地。

途中までは通じていた携帯(ネパールテレコム、Ncellとも)の電波も、まるっきり入らない。今や、トレッキングルートでも携帯は通じ、開けた山の上にある村などでは、データ通信でのネット接続もサクサク可能な場所も多い中、久々に僻地感を実感する。

通過したどの集落も崖と川の間に存在する狭い土地にあり、大きな余震がきて土砂崩れが起きたら逃げ場がないような危険な環境の中、ここの土地は他の集落に比べるとやや開けており、同行している他のスタッフたちが安堵の表情を見せたのもつかの間、、、




新たに家を建てるには敷地が足りず、川に突き出し宙に浮いているような形で作らた小さな小屋が並ぶのを見て、一同唖然とする。




松の木で支えられているだけの土台。風が吹くだけでガタピシ言う。薄い木の板を渡しただけの床は抜けないだろうか。




家の壁も、トタンではなく、ふぞろいな木材と、竹で編んだ手作りのすだれのようなものを貼り付けただけの、つぎはぎだらけのもの。隙間風がモロ入ってくる、というより、屋根がある以外は、屋外とあまり変わらない環境。



地震後、ほとんどの被災村で、村民自らの手で建てられたトタンの仮設小屋。

「仮の住まい」のはずが、「仮」の域を超え、けっこうしっかり作ってあり、「真の住居」として扱われている家も多い。

しかし、ここの村のはどれも本当に質素すぎて言葉を失う。これで冬を越したというから、さぞかし寒かっただろう。

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地震前は12軒ほどの民家があっただけだったが、地震後、もっと山深くから避難してきた人たちもここに仮設の居を構え、民家数は倍ぐらいに増えたそうだ。

賄いスタッフ、昨秋地震後初めて帰省した際には、家々の配置も変わっており、自分の出身村ながら、初めての場所に来たような混乱を感じたと言っていた。

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農作業の閑散期である4月初旬は、村人総出でよく川魚を捕るそう。



岩の下に隠れる魚を中腰の前かがみになり必死に探す様子に、日本での潮干狩り光景が重なり、懐かしい気分に。



名前のない小魚がいろいろ捕れる中、メインは「アサラ」と呼ばれるマス(?)の一種。



唐揚げにしてご馳走してくれた。

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夕飯に出してくれたご馳走。手作業で精米した五分づきっぽいご飯に、石臼で挽いたダルのスープ、畑で取れたぜんまいを炒めたもの、自生しているミントのアチャール、目の前でしめてくれた鶏のカレー。他、水牛のミルクに自家製ヨーグルト。塩や調味料以外はすべて村で採れるもの。

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電気は引かれていないが、豊かな水資源があるため、村人たちが資金を出し合い、川の流れを利用した小さな水力発電所を作っている。このおかげで、日没~翌朝未明までは、電気を使うことができる。日照中は使えないが。

水道はないけれど、村の何か所かに、川の水を長いホースで引いた水場があり、常に水があふれている。地震後も枯れなかったし、目の前は川だから、水には困らなかったそうだ。

調理はいうまでもなく薪を使って。


地震直後の混乱の中でも、壊れた家から、鍋と、備蓄していた穀物を取り出し、畑から野菜を引っこ抜いてきて、薪を集め適当な場所にかまどを作ればよいだけだったから、煮炊きには困らなかったそうだ。

もともとインフラなど整っておらず、自給自足が当たり前。周辺、しばらくは土砂崩れで道も閉ざされ、軍のヘリによる支援物資投下などもあったそうだが、村人たちは、大変な状況下でも、案外たくましく過ごしていたことを実感。



村の男性の足。靴を履くことはほとんどなく、普段は裸足かぞうり。写真を撮った時は緊張で指が縮こまってしまったが、仕事をしているときは、開ききった自由な指が地面をガシッとつかみ、自然と共に生きている力強さがにじみ出ていた。

2016年4月12日火曜日

スタージャスミン満開


カトマンズ、毎日徐々に気温が上がっていて、いつの間にかすっかり夏になっていた。

外はじりじりとさすような強い日差し。屋内にいても窓から入ってくるのはもわっとした空気。

日中の日向の気温30度越えだが、湿度が低くカラッとしているのが救い。


今年は暑くなるのが少し早いような気がする。

真夏開始の指標にしている、ジャスミンに似たこの花も、少し前からすでに満開になり、甘美な香りを漂わせている。

例年、4月半ば過ぎに香りに気づき、少しづつ咲き始めているのを確認するのだが。

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少し前には、一つの株から白と紫の花を咲かせる、この花(日本名ニオイバンマツリ?)からもよい香りが漂ってきていた。

2016年4月10日日曜日

村訪問1:サパナの一時帰省(ラスワ郡トゥロガウン村)

昨年4月の地震後、被災地となったスタッフたちの村をいくつか訪問してきた中で、行く機会を逃していた村二つ。

ラスワ郡トゥロガウン村と、ドラカ郡バル村。

地震直後は近くまで行く車道が土砂崩れで封鎖。その後も余震のため通行が危険で、落ち着いてきたころには雨期突入で二次災害の恐れあり。乾季に入り、いよいよ、と思ったところで燃料危機による燃料高騰。年明けて諸々落ち着き、地震から1年が経とうとする今、立て続けに二村訪問する機会がやってきた。

まずは3月末に訪問してきた、ラスワ郡トゥロガウン村のことを。

ここは、当ブログでも何度か話題にしたことのある、ガイドの義妹サパナの実家。


カトマンズ北、ランタントレッキングへ行く際にも通るトリスリからさらに先へ進み、途中で道をそれ、800mほど山を登り、急斜面に広がる、標高1400mほどの、住人のほとんどがグルン族の村。

道中、地震で家を失い、チベット国境付近から逃げてきた人たちが暮らす、トタン小屋が並ぶ避難キャンプを通り過ぎる。



村まではジープで行ける予定だったが、スタック&スリップを繰り返し、結局歩いて移動したことについては、先日話題にした通り。
http://dailynepal.blogspot.com/2016/03/blog-post_28.html

途中で下車し、荷物やサパナは、村から迎えに来てくれた助っ人たちに運んでもらった。


日没後にやっとサパナの実家到着。といっても、本当の実家は全壊し、家があった場所には石材の山ができていて、彼女が約1年ぶりに到着したのは、地震前は家畜小屋があったという敷地に建てられた、トタンの仮設小屋。実家でありながらも、彼女にとっては初めての場所。

次から次へとやってくる村人との再会を喜び、親戚の子供をだっこしては「ぼうや、大きくなったねえ」と頬ずりをしたり、「おばあちゃん、腰は大丈夫?」と年輩者をいたわったり。

地震直後、彼女がとっさにかばってあげ、頭にケガをしただけで済んだという女の子も寄ってきて、「頭はもういたくないよね?」と髪を分けて傷口をみてあげたり。(この女の子のお母さんは、家の下敷きになり亡くなった)

カトマンズでは(私の前では)口数も少なく、恥ずかしそうに、小さな声で「はい」か「いいえ」しか口にする様子しか見せてくれなかった彼女だが、急に生き生きとし、笑顔になった様子に、思わず眼がしらが熱くなってしまう。

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翌朝。

担いで持ってきてもらった、ネパール製の車椅子を出してみる。

関連記事:

仮設小屋前に適度な平地があり、ここでなら使えそうだ。



その後村を散策に。ここも例にもれず、村のすべての家が崩壊。今もあちこちに、壊れた家の残骸である石がたくさん残されている。



壊れたままの建物もあちらこちらに。その一つが、地震直後、石材に埋まったサパナを親戚たちが掘り起こしてくれ、運ばれたという村のヘルスポスト。彼女から聞いた地震直後の壮絶な体験を思い出し、胸が締め付けられる。



すべての家がトタンの仮設小屋。高台から見ると、その様子が一目瞭然。



これは学校。


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いまだあちこちに地震の傷跡が残る環境だが、微笑ましくなる光景も多々。

ロキシー造りをするおばちゃんとか。


水牛の背中を利用して、干してある枯草を食べようと必死で、ちょっと滑稽なヤギとか。



宿泊用に持っていたテントは、子どもたちの基地に早変わり。楽しいよね。



地震からもうすぐ1年。いろいろ変わってしまったこともあったけれど、新しい日常の中で、みな、たくましく生きていた。
サパナと親戚の人々。サパナの後ろにいる黒い服を着た女の子も、地震直後、かまどのある部屋で家の石材に埋もれ、首から下をかなり広い範囲で火傷。足の指3本は焼け落ちてしまった。もう痛みはないが、火傷の痕がかゆいと言っていた。

右斜め上に半分だけ顔が出ている女の子も、脊椎損傷し、まっすぐは歩けなくなってしまった。

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ところで、カトマンズを発つ際、サパナの心の支えになってくれている、車いす生活を送りながらも活躍している女性から、「絶対にカトマンズに戻ってくるんだよ」と言われていた。「村は居心地がいいけれど、そこで落ち着いたらダメ」と。

サパナ自身、村でずっと生活し続けたい気持ちと葛藤しながらも、一歩前に進みだしたとも聞いている。

それは、昨年落ちてしまったSLC試験(若者の進学・就職など将来を左右する重要な試験)を再受験したということ。

サパナのSLC試験にまつわる話題は、またの機会にでも。

2016年4月3日日曜日

コイラロ


3月半ば過ぎから旬を迎えている食用花、コイラロ。

大きな木に、蘭のような淡いピンク~紫色の花を咲かせる。



先日訪れたラスワ郡の村でもちょうど満開になっていた。

春霞のせいで写真には鮮明に写らなかったが、淡いピンク色の花は、遠目に見ると桜みたいで、日本の山を思い出させる。




たくさん摘んできてくれて、お土産に持たせてくれた。

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ところで、来る4月7日はゴデジャトラ。カトマンズ市内トゥンディケル広場では、ネパール軍による馬のレースや競技が繰り広げられる。

カトマンズに住むネワール族たちは、ゴデジャトラの日にはコイラロのアチャールを作って食べる習慣があるそうだ。(下の写真は、先日作ってもらったコイラロのアチャール付、カジャ)