ブログ移転のお知らせ

当ブログは、2021年12月より新ブログにて発信しています。新しい記事については 移転先→新日々のネパール情報 をご訪問ください!今後ともよろしくお願いいたします。

2006年3月30日木曜日

出稼ぎへ

マレーシア、アラブ方面へ、出稼ぎに行くネパール人は後を絶たない。

出稼ぎ中は、何かと大変なことも多いのが実情のようだが、異国の地でがっぽりお金を稼ぐ夢を見ているネパール人は多い。

そういえば、この前、バンコクからネパールに戻る機内で、隣に座っていた23歳の男の子(見た目はふけていたが、話し始めたら無邪気な男の子だった)も、マレーシア帰りの出稼ぎ組みだった。17歳のときからずっと、出稼ぎに出ていたという。

出稼ぎ、どうだった?と聞くと、

すごく大変だった。苦労ばっかりだった。もう、絶対に外国には行かないって決めたんだ。やっぱり、ネパールが一番だよ。絶対にもうネパールから出ないよ、ボク。

と、自分に言い聞かせるように力説していた。

働いても、それほどがっぽり稼げるわけでもないのが現状なのだと思うが、出稼ぎにあこがれる人は多い。

内輪ネタになってしまうのだが、私たちのガイドとして活躍してくれた25歳の男性がいる。去年からは、ヒマラヤン・ガーデンホームで住み込みでも働いてくれていた。ネパール語や英語を話すときは、まじめな印象を与えるのに、日本語を話し始めたとたんに、お気楽人間に見えてくる、彼。覚えてくれている方も、多いと思う。

先日、ビスケットお兄さん、という話題で、ブログにも登場させていた。

彼が今日、ドバイに向けてカトマンズを発つことになった。

親戚の多くが、マレーシアやアラブ方面に出ているようで、そのツテをたどって、準備を進めていたようだ。

3月中旬に予定されていた、ピーク登山のスタッフとして、出かける予定だったのだが、突然になって辞退したいと言い出した彼。話を聞くと、近日中にアラブに行くのだと打ち明けていた。

そして昨日、突然出発日が決まり、今日カトマンズを発つ運びとなった。

私が知っている海外出稼ぎ組みの家族。大黒柱のお父さん(夫)が外国でお金を稼いでいる間に、ネパールに残してきた家族(妻子)と心が通じ合わなくなり、最終的に家庭が崩壊してしまった人たちは多い。

今日から出稼ぎに行く私たちの(元)ガイドの家族が、そんなふうにならないことだけを願いたい。

2006年3月29日水曜日

日食&祭&停電回避?

昨年10月3日の部分日食に引き続き、本日も太陽が少し隠れる日。

日食ネタは、昨年の記事に詳しく書いたので、そちらをどうぞ。

今日29日の日食は、ネパール時間の17:04から始まる。重なる部分が大きくなるのは17:43、終了は18:11。

前回のときも書いたのだが、誕生星座によって、日食を見たほうがよい(見なければいけない)場合と、ダメな場合がある。

ネパールでの占星術によるとしし座の私は、『見たら苦労が大きくなる』と書かれているので、日食中の太陽は、見たくても見ないようにしよう。

そのほかにも、今日はゴデ(ゴレ)・ジャトラ(直訳すると馬の祭)で祭日。

トゥンディケル(中央郵便局近くにある広場)にて、馬のレースなどが行われる。これには国王も参列する。

このため、ポカラに滞在していた国王が、昨晩カトマンズに戻ってきたようだ。

そのためだろう。昨晩予定されていた夜の計画停電は、実施されなかった。

国王がカトマンズにいる間は、夜間の停電は実施されないだろうと言われている。

これから、4月初めに実施予定のストに向けて、何か起こりそうな気配?そのためもあり、夜間の停電は回避されるそうだ。

その代わり、日中の停電時間が延びるそう。それはそれで、けっこう不便だったりもする。

2006年3月28日火曜日

儀式と酔っ払い

27日のつづき

儀式に参列し、食事が振舞われる前。

食事は、境内にある広いスペースで作られる。親族たちなどで炊き出しをする感じなのだが、段取りが悪いネパール人のこと。「まだ、食事の準備ができていないのよ。あと30分でできるから、もう少し待っていてね」といわれ続けてその後約2時間、待たされることになる。

この間、お寺の境内に座り、他の参列者とおしゃべりをしながら時間をつぶす私。

お寺には、貧しい子供たちや、酔っ払いなども集ったりする。この日も、モンゴロイド顔の酔っ払いが、1人クダをまいていた。

アーリア系の顔(というよりも、インド人顔)をしたバフン(ブラーマン)たちの中にいると、のっぺりとしたモンゴロイドの顔をした私は、いつも1人、かなり浮いてしまう。そんな中で、酔っ払いとは言えども、私と同じ系統の顔をしたモンゴロイド顔の存在には、けっこう親近感を感じてしまう。

でも、今私は、バフンの身内として儀式に呼ばれている身。酔っ払いは見るからにチベット系の民族。まだカーストの概念が残るネパールでは、明らかにバフンが下等と見る民族だ。しかも、バフンが宗教上、絶対に受け入れないお酒 (バフンでも人前でお酒を抵抗なく飲む人たちもいるが、彼らは、絶対に口にしないのだ) を飲んでいる酔っ払いには、いくら同じモンゴロイド系民族として親近感を感じても、私のほうから気軽に話しかけることははばかられる。

しかし。食事を待っている間に、酔っ払いのほうから私に近づいてきた。

ネパール語と、ネパール語ではない言葉(チベット系の言葉)をぶつぶつ言いながら、陽気に私に話しかけてくる。この酔っ払い、いつも、寺院にお参りに来る人たちに怒られているのだろうか、こんなセリフを繰り返している。

「何をしてもいいけどさ、怒るのはいけないよ、怒るのは。ねえ、そう思うだろう?*×△○◇・・・(ここの部分ネパール語ではない言葉で何かしゃべっている)」

明らかに私に話しかけているのだが、そうそう振り向けない。

「キミ、ニホンジンかと思ったけど、もしかして、、、タマン族かい?」

タマン族というのは、モンゴロイド系の民族。日本人に顔が似ているので、私もよくタマン族に間違えられることはあるが、この酔っ払いもそう思ったようだ。儀式に参列中の、周りにいるバフンたちには、この間違いはけっこうウケている。

「やっぱりキミはタマンなのか!妹よ!ワシもタマンだよ!!」

とこんな調子で、1人勝手に話を進めている酔っ払い。

以前、タマン族の村に10日間ほど滞在したことがある。だから、彼らの顔立ちや言葉、習慣には、なんとなく愛着を感じている。そういうこともあり、話し相手になってあげたいのはやまやまなのだが、今の立場上、気軽に相手にすることができないでいる私。

酔っ払いのほうも、私に親近感を感じているようで、話を止めようとしない。

「ゴハンはなかなかできないみたいだねえ。お腹すいたよねえ。果物食べるかい?」

そういったあと、ごそごそ何かを用意し始めた。いろいろな所から集めてきた(物乞いをして他人からもらった)果物が入った黒いビニール袋を、私の前に差し出してきたのだ。

「ほら、食べなよ。お腹すいているんだろ」

・・・。

「・・・今はいらないわ」

一言だけ答えて、あとは、どうすることもできずに、固まってしまう私・・・。

村では、バフンの台所には、不浄の概念から、タマン族は入ることはできない。カトマンズなどの街では、そういう概念も薄れてきているが、今日、儀式の真っ最中という状況では、私がタマンの酔っ払いが差し出した食べ物を、気軽に受け取ることはできない。

ありがとう。酔っ払いのおじさん。でも、ごめんね。今の私の状況では、気軽にもらうことは、できないの。

話し続ける酔っ払いを背に、裏切り者のように無視をするしかない私であった。

2006年3月27日月曜日

火を焚く儀式



知人が主催する儀式がゴカルネシュワル寺院(シバ神をまつる、ボダナート近くの寺院)で、27日、行われた。

先祖代々、ゴカルネシュワル寺院近くに住む、知人。彼には、11歳と9歳の2人の娘がいるが、息子には恵まれていなかった。

そこで、毎朝出勤前の日課になっている、ゴカルネシュワル寺院早朝参拝時に、『息子が授かりますように』と、祈願していたらしい。

そして、3年前、願いが叶い、待望の息子誕生。

大願成就の報告とお礼を込めて、ゴカルネシュワル寺院に祭られているシバ神に、今回の儀式を捧げることにしたようだ。

たくさんの祈祷師たちが、本尊の中や外で、プジャ(祈りの儀式)をする。









途中で、素焼きの入れ物の中で火が燃やされ、本尊の周りに置かれる。この入れ物の中には、10万個分のオイルランプの芯が入っている。今回の儀式の中で、10万個の芯というのは、かなり重大なポイントとなるらしい。

それを、参列者は順番に、サトウキビを棒に見立てて、かき混ぜていく。

このサトウキビ、最終的には各家庭に持ち帰られる。そして、今回の儀式に参列できなかったほかの親戚などに、少しずつ配られる。

サトウキビで火鉢をかき混ぜるときや、サトウキビのかけらを口に入れるとき、願い事をしながら行うと、叶うのだそうだ。

そして、その後、バフン(ブラーマン)の儀式の時に欠かせない、キール(牛乳粥)や、豆のアチャール(漬物の一種)、プリ(揚げパン)などが、振舞われることになる。

つづく。

2006年3月26日日曜日

ガイドのトレッキング日誌

というタイトルのページが、母屋サイトにある。

トレッキングに行ったガイドが、ネパール語で毎回つけている日誌。そのまま身内での反省材料とするだけではつまらない、ということで、日本語に訳し、2年半ぐらい前に、母屋のガイドのトレッキング日誌のページに何回分かを一気に更新した。が、それだけで力尽きて、その後の更新を怠っていたのだ。

しかし、昨年このブログのコメントで、あのページを楽しみにしているという方からの嬉しい言葉をいただき、更新を決意するものの、面倒くさくてなかなか進まない日々が過ぎる。

そして3月。そのコメントを残してくださった方が実際にトレッキングにいらしてくださり、面倒くさがらずに日誌をアップするための、画期的なアイディアをくださった。

それは、ブログ上で一日分ずつ更新すること。それなら、負担にならないのでは?というお心遣いだった。

確かに!母屋サイトの編集の手間も省けるし、ブログを利用するというのは、なるほど、とてもよいアイディアだ。

ということで、早速、試作品を作ってみた。

とりあえず、最新版のトレッキング日誌から再復活。たまりにたまった日記の更新は、徐々にしていきたいと思う。

ガイドのトレッキング日誌 in Nepal ブログ版は こちら

2006年3月23日木曜日

ドーナツ屋にて



大量に、ドーナツだけを揚げている店。

揚げたてドーナツのいいにおいが、いつも漂っている。

近くに行く用事があったので、久しぶりに2個買ってみる。10ルピー(約16円)。

店構えは、とても汚いこの店のドーナツ。味はというと、もちもちしていて、とても美味しい。

2006年3月20日月曜日

交通封鎖解除

3月14日から実施されていた交通封鎖が、本日より解除となった。

実は、今日20日、どうしてもカトマンズからシャブル(ランタントレッキング始発地点)へジープを送らなくては行けなくて、昨日19日には、この交通封鎖の中、危険を覚悟で行ってくれる車を探し回っていたのだ。

ランタン方面のトレッキングを終えたゲストを迎えに行くわけなのだが、予定を立てていた時点で、3月14日から無期限で交通封鎖が実施されることは、知っていた。

カトマンズへ戻る際の陸路移動は、ちょうどこの交通封鎖中にかかってしまう。計画段階では、シャブル~カトマンズ間の陸路移動ができなくなる可能性もあったのだが、期間限定なしの交通封鎖やゼネスト、とうたっていても、たいてい、実施後一週間ぐらい発つと、解除になるのがお決まりのパターンだから、20日以降のカトマンズ戻りだったら、まず問題ないでしょ、と楽観視していた。

でも、車を出さなければいけない日が迫っているのに、封鎖解除が公表されずに、やきもきしていたのだった。

こんな状況だったので、19日夜、交通封鎖解除のニュースをテレビで見て、ほっと一安心。(と同時に、もっと慎重に計画を立てるべきだったと、反省もする)

予定通り、ジープは早朝、カトマンズを出発して行った。

2006年3月19日日曜日

動物病院(クリニック)へ

17日の続き。

病気のうちの猫、一晩どこかをさまよって、翌日の朝、ぐったりした様子で、でも、無事に戻ってきた。傷口は悪化してぐちゅぐちゅで、もういよいよ絶対に治療が必要な状態。昨日土曜日は休日だったので、本日日曜日(ネパールでは日曜は平日)、家の近くのクリニックへ連れて行く。

この前の失敗があるので、今度はタクシーで行くことにした。首輪に紐を結びつけ、逃げ出しても引っ張れるようにしておく。引っかかれてもいいように、長ズボン、長袖&軍手をはめて完全防備の服装で、いざ出発。

家の前にタクシーを呼び、抱きかかえて車内に連れ込もうとしたのだが、いつもとは違う状況を察知し、道路に飛び降りてしまう。今度は紐があるから、逃げることはできないのだが、もがきにもがき、ジャンプをして暴れまわり、陸に上がった魚のように、狂ったように地面に体をたたきつけている。そんなことしたら、傷口に砂が入ってしまうのに、、、と気になってしまう。

何はともあれ、強引にタクシーに投げ込み、クリニックへと向かう。

車内でしばらく狂ったように暴れまくっていた猫も、しばらくすると、私のひざの上でおとなしくし始める。

クリニック到着。この体勢を崩すと、また猫は暴れだしそうなので、気を利かせたドクターは、車内までやってきて注射2本を打ってくれた。



ネパールの動物病院というものを、あまり信用していなかった。特に、猫を飼う人がほとんどいないネパールで、猫の治療なんて、ちゃんとできるのだろうか?と、不安だったからなのだが、クリニックの看板に、猫の絵も書いてあるのを見ただけで、なんとなく安心してしまう単純な私。

抗生剤を打ってくれたようなので、あとはよくなるのを待とう。

ところで、こんなとき、ここがネパールでよかった、と思うのは、猫の毛と傷口からの浸出液で多少タクシーを汚してしまっても、それほど嫌がられなかったことだ。タクシーの中を診察室に代わりにし、かなりの時間使わせてもらったのだが、運転手はいやな顔ひとつせず、ずっと待っていてくれた。まあ、多少チップも弾んだからなのだけれど。

2006年3月17日金曜日

バイクで運べなかったもの

こちらの人は、何でもバイクで運ぶ。

厳密に言うと、バイクに2人乗りして、後部座席に座っている人が、どんなものでも持って、運んでしまう。

たとえば、パソコン、テレビ、畳半畳ぐらいありそうなガラス、木材。

ダサイン(ヒンドゥ教最大の祭りで、ドゥルガ女神に生贄を捧げる習慣がある祭)前になると、ヤギや鶏なども、後部座席の人が抱えて運ぶ。

私も、引越しのとき、家具を抱えて運んだことがある。2人乗りではないが、郵便局に大きな荷物をとりに行くときは、スクーターの足元にダンボールを強引に置いて運んだりもする。

そんなに大きくないものなら、バイクで運べないものはない。そういう思い込みが、今日の事件(私にとっては大事件!)を引き起こした。

うちの飼い猫。ここ一週間ほど体調が悪く、口元と尻尾に大きな傷を負っていた。お腹はすいているようなのだが、口元の傷にしみるようで、水を飲むのがやっと、餌を食べることができない状態だった。

尻尾の傷はお尻付近にまで達し、歩くのもつらい様子。痔をわずらっているニンゲンのような格好で歩くのがかわいそうで、今日、病院に連れて行くことを決めた。

知人(ネパール人)が、飼い犬を時々連れて行くという動物病院を紹介してくれることになり、バイクの2人乗り(私が後部座席)で下見に行くことになったのだが、ついでだから、猫を抱えて連れて行ってしまおう、ということになる。

でも、猫は犬とは違うし、一度興奮状態になると爪は立てるし、すばしっこいので、タクシーで行く、と私が言っても、知人は、箱に入れていけば大丈夫、という。確かに、ヤギや鶏なんかも抱えて運ぶこの国の人たちだから、私になついている猫一匹ぐらい、大丈夫かな、と、私も運ぶ気になってしまう。

たまたま猫が入るぐらいの大きさのダンボールがあったので、それに無理やり押し込み、右脇に抱えてバイクの後ろに座る私。

エンジンがかかると、ただ事ではない状況を察してか、箱の中の猫が、本気で暴れ始めた。病気でぐったりしていた毎日がウソのような暴れぶりだ。

家から100mも行かないうちに、猫はダンボールのふたを押し開け、頭を外に出してしまった。そして、ふたを必死で押させる私の手を、思い切り爪で引っかき、バイクから飛び降り、逃げていってしまった。

あっという間の出来事だった。あたりまえのことだけど、すばしこい猫は、バイクでは運べなかった。

傷が悪化してきてからは、外出させていなかったのに、昼間逃げ出してから、夜になってもまだ帰ってこない。このまま野垂れ死にしたらどうしよう、と思うと、心配で何も手につかない。バイクで連れて行こうとしたことを、かなり後悔している。

2006年3月13日月曜日

ペットはペット

2ケ月ぐらい前から、私が借りているフラットの2階に住む大家が、2匹の犬を飼い始めた。初めのうちは、仔犬がなけば、夜中であろうが早朝であろうが、大家(中年男性)自ら哺乳瓶でミルクを与えるほどのかわいがりぶりだった。

しかし、私が約1ヶ月ネパールを離れ、家に戻ってきた今、仔犬たちの暮らしは一変していた。

大家の言い分によると、仔犬を庭で放し飼いにしていたら、植木はだめにするし、いたるところにウンチをしまくるから、という理由で、散歩の時間以外は、小さな小屋の屋上に置きっぱなしにすることにしたらしい。

この小屋、畳2畳ほどはあるのだが、日がよけられる場所がほとんどないのに加えて、コンクリートでできている。上からは熱い(あえてこの字)太陽の日差しをもろに浴び、足元はコンクリートでやはり熱く、仔犬たちは、わずかにできる日陰に、2匹重なりながら隠れている状態。

ちょうどこの小屋、私のキッチンについている勝手口の真ん前にある。日中、勝手口は開けっ放しなので、私がキッチンに入ると、気配を感じた仔犬たちがくんくんなきだすから、私としてもつらい。こっそり下に降ろしてやろうかと思ったが、小屋が高すぎて、どうすることもできない。

そういえば、以前住んでいた家の、成金バカみたいな大家一家も、毛がふさふさした白い犬を飼い始めたのはいいが、すぐに飽きたと見えて、屋上にある小さな檻の中に、一日中入れっぱなしにしていた。とたん屋根に注ぐ太陽熱は強烈な熱さだったのだろう、この犬、いつも訴えるように泣き叫んでいた。外に出してもらえるのは1日のうちわずかだったようで、ウンチやおしっこも垂れ流しのときもあって、見ていられなかった。

ペットとの共存生活を上手にこなしている現地の人たちも、もちろんたくさんいるが、私の今の大家や、前の大家のような人たちも、少なからずいる。やっていることは犬に対する拷問に近いのだが、どうやら気づいていない。動物は動物、という感じなのだと思う。

2006年3月12日日曜日

バムジャン青年、消える!



知っている人は知っているだろう。ネパールでブッダの生まれ変わりを信じ、何ヶ月間も飲まず食わず、木の下で瞑想し続けてきたバムジャン青年(17歳)の話を。

彼が、昨日3月11日(土)の朝方3~4時頃の間に、突然姿を消したというのだ。

ネパール語新聞カンティプール紙によれば、彼の世話をするために、バムジャン青年から100mほど離れたテントの中にいた世話人も、バムジャン青年が消えたことに気づかなかったという。

青年は、2005年5月16日から瞑想状態に入っていた。

299日間、一切飲み食いをせず、トイレにも行かず、同じ木の下で、同じ格好で、ずっと過ごしてきたのだった。

そんな馬鹿な、と、私たちは思ってしまうが、瞑想体験のある人に言わせると、精神を統一して、瞑想状態に入れば、そういうことも、不可能ではないという。

ところで、いったい彼、どこに行ってしまったのだろうか?



写真は、バムジャン青年について書かれた本に掲載されていたもの。

2006年3月11日土曜日

下痢の洗礼

日本からネパールに戻ってくると必ず、私は体調を崩す。

必ず、数日間水状の下痢をして、少し熱も出て寝込むのが、クセになってしまった。

今回は、戻ってきてから一週間は妹も一緒だったので、私が病気になるわけにもいかない、と気が張っていたせいか、快調な毎日を過ごしていた。

しかし、妹がカトマンズを発ったその日の晩から、突然お腹の調子を悪くしてしまった。

多分、計画停電で、冷蔵庫の意味をあまり果たさなくなったソレ(冷蔵庫)の中に数日間入れっぱなしにしていたキムチを食べたせいではないかと思う。

妹がいる間は、外食が続き、カトマンズに戻ってきた直後に買って、冷蔵庫に入れていたキムチの存在を、すっかり忘れていた。

日本で買うキムチと違って、こちらで買える手作りキムチには、(たぶん)保存材などが入っていない。それに加えて、最近は1日5時間以上の計画停電と来ている。

きっと、傷んでしまったのだろう。

夕飯に、原因と思われるキムチを食べた直後から、お腹の痛みはやってきた。

水状の下痢と、激しい嘔吐。きゅーっと締め付けるような腹痛。

日本から戻ってきても、今回は、一週間以内に病気もせず、快調な出だしだと思っていたのに。

やっぱり、来てしまった。

でも、毎回こういう下痢の洗礼を受けると、またカトマンズ生活がしやすくなるから、通過儀礼?として、素直に受け入れることにしている。

2006年3月10日金曜日

ビュッフェ式パーティにて



9日、ハイアットホテルで開かれた、TAAN(Trekking Agents and Association of Nepal)主催のロサール(チベット暦の新年)パーティーに行ってきた。一応、外国人も対象とはなっていたようだが、会場にいたほとんどがネパール人だった。

社会風刺を得意とする、有名なコメディアンや、若手歌手などのディナーショーが室内で催された後、外のガーデンでビュッフェ式の食事が振舞われる。

一通り食事を自分のお皿に盛り終わった後、一緒にいたネパール人にこう聞かれた。

「地べたがいい?テーブルがいい?」

はて?どういうことかと思い、周りを見ると、ガーデンに用意されたテーブル席以外の、芝生の地べたに座って、あぐらをかいて食事をしているネパール人、多数。テーブル席が埋まっているわけでもないのに。

会費1500ルピー(約2500円)だから、決して安くはないし(一般家庭の住み込み使用人の1ヶ月の給料分がRs.1500 程度のところもある)、会場が5つ星ホテルでもあるから、男性はカッコいいスーツ、女性はオシャレなクルタやサリーなどでキメて来ているのに、座っているのは地べた。芝生の上。

ネパールでの正しい食事作法は「地べたにあぐらをかき、おしゃべりをせずに、黙々と手を使って食べる」が基本。

だからといって、パーティーのときにも、こんな姿で食べるなんて。そういう私も、よそ行きクルタを着ながら、芝生にあぐら座りで黙々と食事をしてきたのだが(でも手ではなくスプーンを使ったけれど)。

2006年3月8日水曜日

計画停電拡大の悲劇

アメリカ旅行&日本帰国を終えて、先日ネパールに戻ってきた。

そして一番に感じたこと。

この時期、こんなに暑くて、しかもこんなに乾燥していたっけ?

昨年10月末頃からほとんど雨が降っていないカトマンズ。埃っぽく、すべてが乾ききっている。

曇りや雨で天候が悪かった≒ほどよい湿度が心地よかった日本から戻ってきた身(肌)には、かなりこたえる。

でも、そんなことは、たいした問題ではない。深刻なのは、時間帯が拡大された、計画停電。

深刻な水不足のため、1月から実施されていた計画停電が1日5時間となってしまった。

今までは、地域ごとに告知されていたスケジュールどおり停電が実施されていたので、あまり戸惑いはなかったのだが、新しいスケジュールがいまいちよくつかめておらず、パソコンの電源を入れるタイミングが見つからない。

たとえばここ何日かはこんな感じだった。

朝から外出し、夕方家に帰ってきてパソコンを立ち上げようかと思ったら、午後6時~9時まで停電。

その翌日、朝起きてご飯を食べて、さてそろそろパソコンでも、と思ったら、午前9時~12時まで停電。仕方ないのでそのまま外出。夜8時ごろ帰宅し、さて、パソコンでも、と思ったら、午後9時~停電。何時に電気が戻るか分からないので、仕方なくそのまま就寝。

さらにその翌日。昨日は深夜の停電だったので、今日は早起きして朝からパソコンを立ち上げるぞ、と気合を入れて6時前に起床。さて、パソコンでも、と思ったら、午前6時~9時まで停電。仕方ないので、またまたそのまま外出。この日は夜の帰宅が10時頃になり、帰ってきて、今度こそパソコンでも、と思って電源を入れた直後の午後11時~停電。

という、そんな毎日で、パソコンの電源を入れる機会を逃してしまっていた。

でも、こんなのまだ序の口で、昨日の新聞によると、このまま雨が降らない場合、水不足が解消されるまで1日12時間(つまり、1日の半分!)の停電が実施される可能性もありえるという・・・。

先進国から戻ってきた身には、つらい始まりになってしまった。

2006年3月2日木曜日

バスの降車法 in バンコク

以前、バンコクの市バスを利用したとき、下車時にバランスを崩して転倒し、頭を打って血が流れ、市内にある緊急外来で何針か縫う手術をしたことがある。

バンコクの市バスは、しっかり停車しないでバス停を流しながら、乗客を昇降させることが多い。

私が下車したときも、そんな感じで、速度を落としただけでしっかり停車はしていなかった。

でも、手すりにつかまりながら、ぴょんと飛び降りれば大丈夫、と、身軽に道路に飛び降りたはずだったのだが、着地に失敗し、思いっきり右側に倒れ、コンクリートに頭を打ち付け、血が出るほどの怪我をしてしまったのだ。

頭の傷は、血が出たほうが軽症ですむ、というが、そのときはそんな常識を思い出すどころではなかった。

一瞬だけ意識を失った状態になって、真っ暗な視界の中で、ああ、異国の地でこんななさけない死を迎えるなんて、、、と思った記憶があるが、すぐに意識は戻り、あわてて駆け下りてきてくれた車掌さんに支えられながら、何とか立ち上がることができた。

たまたま、コンクリートの上に突起物がなかったことと、手に持っていた日傘が頭とコンクリートの間に挟まれて、衝撃が緩和されたことが幸いしてか、数針縫う程度の怪我で済んだのが、不幸中の幸いだった。

・・・とこの話を、バンコクの市バスに乗りなれている知人に話したら、『右足から着地したんでしょ?こけずに着地するためには、左足から着地しないとだめだよ』と言われ、それ以来、バンコクで市バスに乗るときには、いつも現地の人の着地方法を、注意深く観察してしまう。

すると、本当にみんな左足から着地しているから、おもしろい。

逆に私は、いつも右足から降りる癖があることも分かった。

バンコクでバスに乗るのは1年に1回あるかないか程度なのだが、あの事故以来、降車時には意識して左足から降りるようにしている。

余談。

頭を打った後の話。

心配した運転手と車掌さんが、私をまたバスまで戻してくれて、いくつかのバス停を回り乗客をすべて降ろした後に、市内にある大きな病院まで、そのバスのまま運んでくれたのだ。

車掌さんは、私の傷口に、バスの窓拭き用かと思われるキタナイ雑巾を押し当ててくれていて、少々衛生状態が気にはなったが、とても心温まる出来事だった。

『マイペンライ』という生のタイ語を聞いたのもこのときが初めてで、異常な状況の中、ひどくうれしかったのを覚えている。

病院では、緊急病棟に連れて行かれ、研修医のような若い医者に見守られながら、麻酔後、傷口を数針縫ってもらった。

その晩のフライトで、成田に向かう予定だったので、血で染まったままの服を着替えるまもなく空港へ向かい(たまたまワイン色のシャツを着ていたので、血は目立たなかった)、そのままの格好で飛行機に乗り帰国。

抜糸は日本でしてもらったのだが、傷口を見た日本の医者は開口一番、『すっごい色の糸で縫われてますねえ。青色の糸ですよ。しかも縫い口がそろってないですねえ』と、面白そうに教えてくれたのだった。

2006年3月1日水曜日

『帰国』の使い方

『ネパールにはいつ帰るの?』『ネパールへの帰国はいつ?』と聞かれると、違和感を感じてしまう。

海外で暮らしていても、日本滞在期間が、1年のうちわずかしかなくても、私が日本人である以上、『帰国』というのは、『日本に帰る』ときにしか使いたくない。

『ネパールへ帰国する』という使い方、私は絶対にしない。その代わり、『ネパールに戻る』という言い方はする。

何度かブログにも出した、母の実家・南九州にいる祖母。母が時々帰省し、横浜にある現在の家に戻ってくるとき、祖母はいつも、『いってらっしゃい』と言って見送ってくれるそうだ。南九州で育った倍以上の年数を、すでに東京・横浜で過ごしている母に対しても、だ。

生活の基盤がネパールに移ってしまっていても、私は、やっぱり、ネパールに『帰国する』のではない。

『帰国』するのは、日本に帰るときだけ。ネパールには『戻る』のだ。ささやかな違いしかないかもしれないけれど、これが、『帰国』という言葉に対する、私のひそかなこだわりでもある。