ブログ移転のお知らせ

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2015年6月30日火曜日

田植え後のダヒチウラ

 
30度を超す毎日が続いていた夏も過ぎ、6月半ば頃から雨季が始まった。ネパールには六季あり、春夏の次に「雨季」が来る。
 
カトマンズ周辺では、雨期の始まりと同時に田植えが始まり、そろそろ終盤となっているところが多い。
 
平野であるタライ地方(南地方)では田植え機が導入されているところもあると聞くが、カトマンズ他、全国的に見ても、まだまだ手植えが主流。狭い棚田も多く、手植えでないと逆に難しい、という理由もある。
 
村人同士協力し合い、今日はうちの田んぼ、明日は隣の家の田んぼ、というように順に作業を進めていく。それでも手が足りないときはバイトを雇うそうだが、日給500ルピー~仕事内容によりプラスαが相場のようだ。
 
写真の田植光景は、先週半ば、カトマンズ郊外にて撮影。
 
 
 
さて、本日アサールパンドラガテ(ビクラム暦3月15日)。
 
この日にはダヒ(ヨーグルト)とチウラ(乾し米)を食べる習慣があり、オフィスのカジャ(昼食兼軽食)でも、毎年用意してくれる。
 
チウラは日常的によく食べる便利な食材だが、今日のはいつものより高級品の、バクタプル産ラトチウラ(赤いチウラ)。ダヒと混ぜふやかして食べると、コーンフレークのようで美味しい。

ダヒチウラ他、大小2種類の川魚のフライと、ひし形の甘いネパール菓子「バルフィ」も用意。
 
ところでチウラにも何種類があるのだが、震災後、カトマンズ市内では、安いチウラがしばらく消えていた店があったそうだ。被災者への救援物資用として、値段の安いものが買い占められていたようだ。

・・・
 
今日食すダヒチウラ、カトマンズやその周辺では、田植え作業もそろそろ終わりになる頃で、疲れをねぎらい食べる、というケースが多い。
 
しかし、ネパール中部あたりでは、「この日を境に田植えが始まるので、元気づけのために食べる」と認識している人がいたり、別の地方出身者は「二毛作の最初に収穫した米から作った新しいチウラを食べ、次の米作りへの鋭気を養う機会」、と認識している人がいたり、と、同じネパールでもとらえ方はいろいろ。
 
私の出身村では、この日にダヒチウラなど食べる習慣はなかった、という者も。
 
毎年聞いているけれど何度聞いても興味深い、ダヒチウラにまつわる皆の話を聞きながら、今年のアサールパンドラガテを過ごした。

2015年6月28日日曜日

ネパール大地震から2ヶ月、バサンタプル広場にて

 
 
4月25日に発生したネパール大地震から、昨日(6月27日)でちょうど2か月。

国際社会的には6月25日が地震から2か月、という認識だったと思うが、ネパールではビクラム暦が日常的に用いられており、庶民的には6月25日ではなく昨日で2か月、という認識を持っていた人がほとんど。地震が起きたのはビクラム暦2072年1月12日で、昨日が3月12日だったから。

2か月前の12日(バーラガテ)も土曜日だった。


≪一つの亡くなった魂を、一つの風船に≫
 
カトマンズ市内バサンタプル広場では、追悼の意を込めて風船を空に放つ催しが行われた。現地メディア・アンナプルナポスト他関連団体による主催
 

 
 
大小ネパール国旗を手にしている人たちも多数。
 
震災で亡くなった身近な人への思いを、風船に書き入れている人の姿も。
 
 

地震発生時刻の午前11:56、震災で亡くなった人の数に合わせた約9000個の風船が、一斉に空へ放たれていった。

2015年6月26日金曜日

ラッドゥ



10年生終了後に受験資格が与えられる、SLC(School Leaving Certificate )と呼ばれる、全国共通の卒業認定試験。

合格率は毎年低く、今年は約47%だったとのこと。合格することはもちろんのこと、結果の良しあしで進学する学校や就職先のレベルも変わってくる大事な試験。

3月に実施され、約3か月後の先日、結果が発表になった。

SLC受験後からバイトに来ている17歳の青年も、合否発表当日は朝からそわそわ。そこそこ良い結果で合格できたそうで、先日、スタッフたちに「ミタイ」(甘いネパール菓子)をふるまってくれた。

ネパールでは祝い事があると、その当本人が周りにご馳走をふるまったりする習慣があるのだ。

持ってきてくれた「ミタイ」は、「ラッドゥ」と呼ばれる団子状のネパール菓子。「ラッドゥ」にもいくつか種類があり、「ブニヤコラッドゥ(बुनियाको लड्डु)」という、ひよこ豆の粉を水で溶き仁丹サイズの「揚げ玉」を作り、それを蜜で固めゴルフボール状に丸めたもの。

味は、いわずもがな、激甘。

街のミタイ屋曰く、SLC合格発表後は、いつも以上にこのラッドゥがよく売れているそうだ。

2015年6月23日火曜日

地震後激減した観光客を呼び戻せるか

 
23日夕方、カトマンズダルバール広場内バサンタプルで行われた、ネパールに観光客を呼び戻すためのイベント。
 
某政党主催だったが、旅行業界関係者他、主催政党とは関係のない人たちもたくさん集まっていた。
 
 
 
メッセージボードやネパールの国旗を掲げ、タメル地区までラリーをした後、ライブなどのイベントが実施されたという。
 
 

 
ところで、昨日のネパール語紙カンティプールに「4月25日一回目の大地後~6月15日までの外国人入国者数が昨年に比べ約7割減った」というような記事が載っていた。

地震直前までは例年通りの入国者数だったようだが(約65,000人いたと。ちなみに昨年4月は約68,000人)、その後激減。5月中の入国者数は約17,500人のみだったようだ。(手元にあるデータによれば、昨年5月の入国者数約51,000人、一昨年は約44,000人)

この約17,500人の入国目的は未確認だが、おそらく、レスキュー・メディア・支援関係者がほとんどを占め、純粋な旅行客はごくわずかなのではないかと思う。いずれにしても、外国人入国者数自体が、半分以下に減ってしまったことになる。

(ウチでも、4月25日から5月末までに入っていたトレッキング・旅行予約はすべてキャンセルになったが、代わりに、26日以降メディア関係者の手配でスタッフ総出となっていた。5月初旬頃までは、街で見かける貸し切り車のほとんどが、メディアやレスキュー隊を乗せた車両。カトマンズ市内の中~高級ホテルはこれらの方々が利用しどこも満室。外部からの予約を受け付けてくれないホテルも多かったのだ)

6月の集計は15日までの分しか掲載されていなかったが、入国者数約9,000人と(昨年は6月の1か月間で約41,000人)。

数値で見ると、確かに地震後の入国者数が激減しているのは一目瞭然だが、個人的には、実は、今のところ、激減具合をそれほど実感できていない。

日本人旅行者限定で考えると、例年でも5月~7月までの3か月間は、他の月に比べて入国者数が一気に減る。加えて、雨季のためネパール旅行のオフシーズンでもあり、もともと暇になる季節なのだ。

雨期明けの旅行シーズン再開時に、どの程度の旅行客が戻ってくるか、が、気になるところだ。



※過去の入国者数(空路利用のみ)は、ネパール観光局のサイトで確認できます。
 http://welcomenepal.com/promotional/about-us/tourist-arrivals/

2015年6月19日金曜日

狐の嫁入り

 
ここの所お天気雨に降られることがよくある。


お天気雨のことを、ネパールでも「狐の嫁入り」に似た言い方をする。厳密には「狐」ではなく「ジャッカルの嫁入り」(shaal ko bihe)だが。

今日も夕方、傘を持たずに出かけた先で、空は明るいのに、突然大粒の雨が降り始めた。

通行人や、自転車に野菜乗せて売り歩くインド人行商人たち、近くの軒先で雨宿り。私もその中に混ざる。



ところで、大粒の雨が降り始めると街でよく目にすること。それは、滴る雨水をバケツに貯める光景

雨季も始まりそろそろ水不足も解消され始める季節だが、アパート住まいの庶民宅には部屋に水道が引かれておらず、汲み置きの水を生活用水とする人もまだまだ多いカトマンズ。雨水も役に立つ存在。

2015年6月16日火曜日

土砂災害のあと

 ≪2014年8月2日未明に発生したバラビセ手前の大規模地滑り跡手前≫

地震後二回、シンドゥパルチョウク郡バラビセ手前の地滑り跡を通った。

一見地震の被害にも見られる地滑りだが、地震とは関係ない。発生したのは昨年の雨季中。

皆家で寝ている時間帯だったこともあり、多くの人が気付かないまま土砂にのまれたのでは、と言われている。100人近い死傷者が出た大規模土砂災害。

地滑り発生の8日後にこの近くへ行く機会があり、遠目から見ていたのだが、現場を訪れるのは初めてだった。

地震被害とはまた異なる、普通ではない雰囲気に息をのむ。と同時に、不謹慎ながら、その神秘的な景観に見入ってしまった。


≪せき止め湖≫

 

≪地滑り前はここに木々が生え、家屋もあった≫
 
===
 
雨季中は、大なり小なり各地で土砂災害が発生する。外国人旅行者もよく訪問するエリアや、そうでないエリア、いろいろ。このブログでも何度か話題にしている。
 
今年は、地震の影響もあり各地地盤が緩んでいるため、これから雨期が本格化すると、例年以上に土砂災害が多発するのでは、と恐れられている。
 
地震の影響が大きかった地域のみならず、直接の被害は見られなかったたような場所でも、いつも以上に地滑りが多発しており、死傷者が出ている地域もある。
 
カトマンズを出ると、どこも土砂災害が起きやすそうな場所ばかり。雨期入り後のこれからの季節に被災地視察を考えている団体の話もちらほら聞くが、十分気を付けたほうがよい。
 
被災地行きのみならず、地震の影響がなかったエリアへの移動も慎重に。

2015年6月10日水曜日

地鳴り


地震から1か月半が経ち、今更観はあるが、地震時の体験を聞き取るため、都合のつくガイドたちに集まってもらった。

雑談や電話で聞いてはいたが、一度、ひとりひとりとじっくり共有したいと思っていたのだ。

順番に呼んで、思い出すまま話をしてもらう。はじめは照れて口ごもる者も、ひとたび話し始めると、今さっき体験したことのように、平常時なら覚えていないような細かい出来事まで語ってくれる。

自宅の地中に埋まっている水タンクを掃除中だった者、昼寝をしていて揺れと同時にベッドから落ちた者、屋外で会合中だった者、親戚の家で危うく息子が戸棚の下敷きになりかけた者、村に帰省中で食事後リンゴをむいていた者、トレッキング中だった者、皆状況は異なる。

でも、共通するのは皆、「はじめ、地鳴りのような音を聞き、異変を感じていたところ大きく揺れ出した」といういこと。

地鳴りについては、今回集まってくれたガイドだけではなく、私がきいた他のたくさんのネパールの人たちも語っている。

5月12日の余震の時も、2011年9月18日の地震の時も、私の周りにいたネパールの人たちは皆、揺れ始める前に異変を感じ慌て出していた。

・・・

ちなみに私は、激しく揺れ始めてからのことしか覚えていない。地震発生時、玄関近くにいて外に出ようとしていたのだが、なぜ揺れを感じたとき自分があの場所にいたのか、よく思い出せなかった。たまたま玄関にいて、すぐ逃げることができた、と思い込んでいた。

しかし、当時のことを共有しいくうち、あの場所にいた理由を突然思い出し、はっとした。

あの時私は台所で洗い物をしていて、庭にいた家人に何度もしつこく「早く外に出ろ!」と呼ばれたのだ。もう少しで洗い終わるのに、と思いながら、しぶしぶ玄関に向かったところで、大きな揺れを感じたのだ。

庭にいてゴーッという地鳴りを聞き、これはただ事ではない、地震が来るに違いない、と瞬時に察し、何度も大声で外に出るよう私を呼んだ、という家人の記憶と一致する。

揺れを感じる前、地鳴りが聞こえる人とそうでない人がいるようだが、ネパールの人たちは、自然を感じる感覚が研ぎ澄まされている人が多いのだろうか。

それともただ私が鈍いだけなのか。皆が皆地鳴りを聞いたと証言するたび、やや凹む。

・・・ 

ところで冒頭の写真。

今日は聞き取りだけで解散する予定だったのだが、集まったガイドたち、カジャを期待していたので、急きょ賄スタッフに用意してもらった皆分のカジャ。

常勤スタッフたち用にはすでに別のカジャを作り終えていたのだが、鶏肉を買いに走り、新たに作ってもらうことに。

2015年6月8日月曜日

サンガの脊髄損傷リハビリセンターへ

 
 
4月25日と5月12日のM7越えの地震の影響で、ドラカ郡、シンドゥパルチョウク郡、ラスワ郡、オカルドゥンガ郡にある、スタッフやガイドたちの実家が崩壊した。
 
ただ、不幸中の幸いで、私がきく限り、「村の家屋のほとんどが崩壊し住めない状況となっているけど、亡くなった人はいない。軽いケガ人が出た程度」というところが多かった。先日訪れた、ドラカ郡とシンドゥパルチョウク郡の村も然り。
 
これは、地震発生がいずれも昼頃で、畑仕事や洗濯など、屋外に出ている人たちが多い時間帯だったのが関係している。もし地震が夜中に発生いていたら、崩壊した家屋に寝ていたほとんどの村人が死傷していただろう、と、皆が皆、口をそろえて言う。
 
人的被害が少なくて本当に良かった、と思っていたのだが、現実はそう甘くはなかった。
 
・・・
 
4月25日の地震の震源地ゴルカ郡。この郡に実家のあるガイドに確認したところ、一部亀裂が入ったが家に住めなくなるほどの被害はない、と聞いてほっとしていた。しかし、彼の妻の実家があるラスワ郡の村がひどいことになっていると、のちに知ることになる。
 
(私たち、年に何度か家族も含めた集まりを実施していて、スタッフやガイドたちの妻や夫、他、家族ともよく顔を合わせており、他人事とは思えないのだ)
 
妻の実家は、カトマンズからランタントレッキングの際の玄関口となるシャブルベシへ行く途中の、山奥の村にある。村までは車道は引かれておらず、車道がある道から現地の人の足で、急な斜面を1時間ぐらい(というと私の足なら2時間以上はかかるだろう)歩いた場所なのだと。
 
公的データではないが、ガイドの義父(妻の父)曰く、35戸あった村のすべての家が崩壊。また、村人24人が死亡。うち、親戚だけでも6名が死傷したと(3名が死亡、3名が重傷)。
 
・・・
 
本日サンガの脊髄損傷リハビリセンターを訪れたのは、重傷を負ったガイドの義妹(サパナ19歳)の見舞いのため。
 
 
 
 
4月25日11:56、サパナが家の近くの水場で洗濯をしていたところに地震発生。室内に親戚の7歳の女児が一人でいたことを思い出し、石造りの家の中に入り連れ出そうとしたところで、家が崩壊し始める。
 
とっさに四つん這いになり女児をかばうも、上から石材が落ちてきて、腰に直撃。女児共に半分瓦礫に埋もれたが、揺れが収まった後に村人に助けてもらい、その日は村のヘルスポスト(無人診療所)へ。しかしヘルスポストも崩れ、全てが埋まっている状態で治療はできず。
 
村を出る道も落石でふさがれ、移動も困難な状況。手当することもできず、そのまま3日間は村にいるしかなかったそうだ。
 
4日目に軍のヘリが偵察に来たので親族がカトマンズへ搬送してほしいと頼み込むも、はじめは断られる。しかし、とにかく病人を見てほしい、と状態を見せたころ、事の深刻さを分かってもらえ、カトマンズに搬送。ティーチングホスピタルで緊急手術を受け、様態が安定してから、ここ、サンガのリハビリセンターに転院してきた、というのが今までの流れとのこと。
 
・・・ 
 
サパナがかばった女児は頭にケガをするも軽傷ですんだそうだが、別の場所にいた女児の母親は死亡。
 
ちょうどこの日、村ではアマ・サムハ(母親たちの集まり)が実施されていて、この会合に参加していた女性6名、同じ家屋の下敷きになり亡くなったのだと。その中に女児の母親もいたそうだ。
 
他にも、サパナと一緒にヘリで搬送された重傷者には火傷を負った16歳のガイドの義妹、18歳の親戚の娘もいた。
 
16歳の義妹は、地震発生時、屋内でかまどに火をかけていて、崩壊した家の下敷きになり下半身と腕などを広い範囲で火傷。村人に瓦礫の下から助け出された時には、履いていたつっかけが熱で溶け足にくっつき、足の指が3本、焼け落ちたのかなくなっていたと。
 
18歳の娘も瓦礫の下敷きになり脊椎損傷。
 
壮絶な体験にいたたまれなくなり言葉を失った。
 
なお二人はカトマンズの病院を退院し、現在は市内の親戚のアパートでリハビリをしつつ自宅療養中とのことだ。
 
・・・ 
 
サンガのリハビリセンターは、本来約50床しかないそうだが、地震の影響で入院患者は倍以上に増えているとのこと。図書スペースや、ロビー、庭の軒下、仮設テントの中にもベッドが並べられていて、重傷者は屋内、重傷ながらも比較的経過のよい人は仮設テントの中に振り分けられている。サパナのベッドは屋内にある。
 
医師の診断によれば、サパナは、リハビリを続けても自力で歩けるようになる可能性はゼロ、とのことだが、まだ本人には告げていないという。
 
サパナ自身も、下半身不随になったとは思っておらず、毎日、いつ歩けるようになるのかしら?と付き添っている姉(ガイドの妻)に聞いているそうだ。
 
村の被害も大きく、親族もたくさん死傷、すべてを見てまわらなくてはならず、村とカトマンズ、サンガを行ったり来たりしている義父。サパナは実弟の子だが、実弟が父親の役目を果たさなかったため、幼いころから自分の娘同然に育ててきたのだと。
 
「この子の名前サパナ(夢)のように、すべてがサパナならよかったのに」と何度も言っていたのが、つらかった。

2015年6月6日土曜日

トゥンディケル広場のテント村のこと

 ≪トゥンディケル広場6月6日撮影≫ 

4月25日の地震直後から避難者たちが集まってきて、思い思いにテントを張り出し、その後カトマンズ最大の避難村となったカトマンズ市内トゥンディケル広場。

しばらくはかなりの数の避難者がいたが、地震発生後一週間目ぐらいからだんだん数が減り始め、5月12日の大きな余震前には数えられるほどしか残っていなかった。

しかし、余震後またたくさんの避難者がここに戻り始めて以降、今でもその数は減っていない。


 ≪トゥンディケル広場4月27日朝7時前撮影≫

地震発生の約1時間半後、最初ここを通り過ぎた。不安そうな市民がたくさん集まっていて、私自身の不安な気持ちも増したことを思い出す。

4月27日からは10日間ほぼ毎日、記者さんに同行してここを訪れた。

驚いたのは、27日早朝の時点ですでに、テント(ビニールシートをつっかえ棒にかぶせた程度のもの)がたくさん張られ、ビニールシートで囲んだ、大規模な仮設トイレが準備されていたこと。

地震発生後2日もたっていないのに、なんと素早い対応なのだろうと感心するとともに、手際の良さに疑問も感じた。

避難している方に聞いたところによると、ここでイベントが実施されていて、ステージや垂れ幕などが設置されていたので、それを分解し思い思いに避難用のテントに変えたのだそうだ。

イベントというのは、地震発生前日の4月24日から28日まで、5日間の予定で実施されていた、インドの有名なヨガ指導者・ラムデブ氏の無料ヨガキャンプ。

4万人もの参加者を見込んでおり、大きなステージや仮設トイレが作られていた。

このイベントがなく広場が通常の更地の状態だったら、ここに避難はしてきたものの、テントを見繕うこともできず野ざらしで過ごすことになっていた人の方が多かったことと思う。


・・・



5月12日の余震後は、本日現在のように整然と、文字通りの「テント」が立ち並び、見るからにテント村という様相となっている。トイレも、当初設置されていたイベント用の物は取り壊され、もう少しまともなものが設置されている。

ちなみにこの青いテントは中国の援助によるもの。カトマンズのみならず被災地のあちこちで目にする、目立つテントだ。

2015年6月4日木曜日

いただきもの


今年もまたすももの季節がやってきて、またネタにしてしまうのだが。

カトマンズ郊外に住むスタッフが、庭の木からとったすももを毎年持ってきてくれる。なので一度も、果物屋で買ったことがない。

・・・

いただきものといえば。

先日、ドラカ郡の女性スタッフの家に行った帰り、10㎏は入る米袋いっぱい分のじゃがいもをお土産に持たせてくれた。

ジャガイモがよく採れるそうで、訪問時にも、白や紫の花を咲かせていて、若い葉は青菜のタルカリにしてくれた。

この辺一帯も、地震の被害があった場所。
 
幹線道路では、チャリコットやドラカ、シガティ方面に向かうと思われる、救援物資を積んだ大きなトラックを何台も見かけた。

彼女の村に行くには、幹線道路をはずれ未舗装道を進む。途中の集落にある家屋も崩壊。

 
 
 
 
最近車道を作っており、乾季中は、このさらに先の集落まで公共バスも走っている。
 
 
 
 
自家用車の軽でも行けるかと強行走破を試みたものの、底を大きな石にこすりまくるわ、スリップしまくるわで、途中で断念。(底をこすりすぎ、ガソリンが漏れ始める、というハプニングも)
 
 
 
 
途中にぽつんとあった助産所に車を置かせてもらい、目的地の村から来てもらったバイクの後ろに乗り、凸凹の道をロデオ状態で移動。 
 
 
 

 

彼女の村方面へ向かう救援トラックは見かけなかったが、この村の人たちもまた被災者であり、救援物資としての食糧を受け取ってもおかしくない存在。

なのに、逆に、たくさんのじゃがいも持たせてくれるなんて。

2015年6月3日水曜日

タメルで唯一被害の大きかった場所

 
4月25日の地震直後に全壊したホテル・バジェット。旅行者が集まるタメル地区の北側にある。私たちのオフィスから200m程しか離れていない場所。
 
タメル地区の他の建物がほとんど何の被害も受けていない中、このホテルは、明らかに手抜き建築だったのだといわれている。
 
この前の細い通りが、毎日オフィスへの往復時の通勤道だった。地震後この道は意識的に避け、ラインチョウルの大通りを通っていたのだが、今週から気分的に日常が戻ったからか、無意識のうちにここまで差し掛かり、通行止めの注意書きを見て我に返った。
 
見慣れた景色ではなくなっていた。
 
 
 
 
この奥にはホテルノルブリンカとシャクティがある。瓦礫がよけられ、やっと通れる程度の道が作られてはいる。
 
 
 


ホテルは、向かいにあったドゥンゲダラ(共同水場)に倒れた。

ドゥンゲダラは、近隣が生活用水を汲みに来たり、洗濯をしたり、水浴びをしたりする場所。

私たちのオフィスではずっと水が来ず常に購入しているのだが、以前はここまでガイドやポーターたちに水を汲みに行ってもらっていたこともあった。

地震があったのは、土曜日(日本の日曜にあたる日)の正午前。朝食を終え、水場で洗濯をしたり、体を洗ったりすることの多い時間帯だったため、地震発生時にはいつもよりたくさんの近隣がここにいたのではないかといわれている。

旅行者エリアのタメル地区にありながら、庶民の生活感あふれる場所だった。
瓦礫に埋もれた変わり果てた姿が衝撃的過ぎた。

以前同じ角度から撮っていたドゥンゲダラの様子。
以前の記事:共同水場での注意 より


 

ホテルやドゥンゲダラにいて巻き込まれた方々のご冥福をお祈りします。
 

2015年6月2日火曜日

カトマンズ郊外の村へ

 
 
6月1日、カトマンズから南東20kmほどの場所にあるラマタール村を訪問。カトマンズよりも300mほど標高が高く、緩やかな段々畑の中に民家が点在する場所。
 
昨年母親がなくなり、3月末に1年の喪が明けたスタッフに、喪が明けたら食事に来るようずっと誘われていたのだ。そろそろ訪問計画たてようか、と思っていた矢先の4月25日の大地震。しばらくは、とても食事に出かけるような気分ではなかったが、やっと日常が戻り始め、気分転換に出かけることに。


 
 
視察目的でも何でもないのに、どうしても、行く先々の被害の様子が気になってしまう。
 
途中の村でも被害にあった家屋がけっこうある、と聞いていて、確かに道中ところどころ目にしたのだが、目的地3kmほど手前・ルブの町に差し掛かって愕然。れんが造りの建物が並ぶバザール周辺、崩れている家屋が目立ち、メインの通りから奥に続く細い小道をのぞき込んでも、目につくがれきの山。5月12日の余震で全壊したルブのゲートも目にする。
 
※写真4枚は、目的地のラマタールではなく、すべてルブのバザール周辺で撮影。

 

復路、ヘルメットをかぶった団体を見かけた。崩れたり亀裂が入ったりしたままの家屋をそのまま放置しておくと、もうすぐ雨季も始まり危険なので一部取り壊す作業を行うのだと。このような作業が各地で進められているようだ。


 

この辺一帯、狭い範囲ながら大きな被害が目につくのだが、瓦礫や壊れた家に囲まれながらも、収穫後の麦を地面に敷いたむしろに広げ、乾燥させている光景もあちこちで見かけた。非日常の中にも、ホッとする日常の様子が。

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ところで、スタッフの家は、約1年半がかりで建て替えを行い地震前にほぼ完成していて、被害は全くなかったが、レンガ造りの古い家のままだったらおそらく全壊していただろう。

地震前、建て替えたばかりの家の屋上に出、カトマンズやパタン市街を見下ろしながらくつろぐ、新しくできた時間が楽しみだったそうだが、地震後は、被災した近隣のことを考えると、自宅にいても落ち着かず、屋上や庭で過ごす時間はほとんどなくなってしまったそうだ。

このエリアでも被害のあった家とそうでない家の差が激しく、地震後かなり早いうちから、被害のなかった村人たちが有志で寄付を出しあい被災した人たちに届けたり、所有する竹山の竹を伐採し、仮設住宅づくりのための支柱用に無料提供したりと、村人同士助け合う姿が見られた(今でも見られている)とのこと。

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カトマンズからそう遠くないこともあり、屋外生活を余儀なくしている人たちには、中国が各地に配布している避難テントが早いうちに届き、また、いろいろな団体からの救援物資も届いているようだが、中には見栄で活動するような団体もあり、見ていて解せないこともあるそう。

たとえば、通り沿いの被害が比較的大きかった集落を素通りし、林の中の集落ばかりに物資が届くことが多かったり。人里離れた感のある林の中の集落のほうが、報告用として絵的に映えるのだろう。

チウラ(干し米)やチャウチャウ(インスタントラーメン)の食糧配布が多いようで、頻繁に物資を受け取る機会のある人たちが、「のどが渇くものばかりで飽き飽きした。今度は米でも持ってきてくれないかなあ」と冗談を言っているのを耳にしたり。

ここだけではなく、どこででも起きていそうな出来事だ。

2015年6月1日月曜日

一か月以上ぶりの学校再開



地震により一ヶ月以上休校となっていたカトマンズや周辺の学校の多くが、5月31日(日)から授業を再開した。(ネパールでは日曜は平日扱いなのだ)

ネパールの公暦ビクラム歴では、4月14日が新年(2072年元日)にあたるため、4月14日前から年度末休みに入っていた学校が多かった。

休みは学校によっても異なるが、4月末頃まで休みが続いていて、そろそろ新学期が始まる、という4月25日に大地震発生、その後の長引く休校で、5月31日が新学期最初の登校日となった学校も多い。

・・・

学校再開に当たり、保護者を安心させるため、校舎が被害を受けていないことを目で確認させ、事前に説明会を開いていたところが多いが、それでも不安で、ずっと校内待機していた親や、引き続き自主欠席させていた親など、保護者によっても対応はいろいろだった模様。

 しばらくは授業時間を短縮しての開校とし、校舎に何の被害がなくても、庭にテントを張り屋外クラスとしているところも多いようだ。

写真はカトマンズ市内にある、日本の幼稚園(2歳~6歳ぐらいまでが在籍)に相当するクラスを持つ、私立学校の様子。

この学校では、建物の中に入るのを怖がる子もいるそうで、庭に張ったテント内での活動を中心に、室内で過ごす時間を徐々に作って行く計画とのことだった。