ブログ移転のお知らせ

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2015年9月30日水曜日

助け合い精神


燃料不足は日に日に深刻になっている。

過去にも、インドから買っている石油製品の支払い滞納が原因で売ってもらえず、不足したことは何度もあり、そのたびに大変な思いを経験してきてはいるが、制裁による今回の燃料不足は、今までになく深刻だ。

昨日は、数時間かかることもある長蛇の列に並べばかろうじて給油できていたが(といっても、バイクは1台につき一週間に3リットル、車は1台につき一週間に10リットルという、ごく少量)、本日のニュースでは、明日からは一般車両へは給油を行わないことになったと言っている。

市内を走る車両はめっきり減り、公共バス・マイクロも激減。乗り場にはあふれる人。やってくるのは定員オーバーの車両ばかりで、待っていても乗れないことも多い。通勤や通学に支障が出ている人も増えている。

そんな中、ガソリンがまだ残っていて、バイクや車を走らせていることができる人たちの中で、同じ方面にいく人がいれば(見知らぬ人でも)乗せてあげよう、という動きがみられているようだ。

スタッフの一人も昨日、いつもはバイクで通勤している5km程の道のりを、ガソリンが尽きてしまい、公共車両で移動しようと乗り場周辺を歩いていたら、同じ方向に行くバイクに乗った見知らぬ人に声をかけられ、途中まで乗せてきてもらったと。

地震の時も、見知らぬ人同士が助け合う姿をあちこちで見てきたが、ネパールの人たち、(普段からそうだけど)、困った時には特に、お互いに助け合う高い協力精神を、自然に発揮できる人たちなのだなあ、とあらためて感じた。
 

私のスクーターのガソリン残量もわずかだが、一人で乗っても二人で乗ってもガソリンの消費量に差はない。

平日なのに異常なほどにすいている道を走っていると、この残り少ないガソリンを独り占めする事に罪悪感さえ感じてくる。

通勤の往復で私も、公共車両を待つ見知らぬ人に声をかけ、途中まで乗せてあげた。

ヘルメットに顔半分を隠したマスク状態で、突然バス乗り場にすっと近づき、見知らぬ人に「途中まで乗ってく?」と声をかけることに私自身ためらいも感じないし、怪訝にも思われない、こんな時のネパールの環境(人との距離感)は素晴らしいと思う。

※写真は昨日、市内のガソリンスタンドから、確認できただけでも3km以上に渡って延びていた給油を待つ列の一部。
 

2015年9月28日月曜日

薪調理の強み

 
引き続きガソリン不足中。
 
不足しているのはガソリンだけでなく調理ガスも。一般家庭はもちろんのこと、レストランは営業縮小せざるを得なくなる状況にまで陥っているところもあり、深刻だ。
 
昼過ぎ、外出ついでに立ち寄った、よく行くダルバート屋。普段、肉メニューはヤギ肉のカレー、鶏のから揚げ、そして、運がいいと川魚のフライもあるのだが、今日はヤギのカレーしか作っていないと。
 
理由はガス不足。ご飯とダルスープ、それに野菜のおかずとアチャールという基本メニューは絶対必要だけど、おまけの肉メニューを何品も作っているほどガスに余裕がない、とのことで、皆が大好きなヤギ肉のみを調理したのだと。しかもかまどで。
 
「時間がかかるから、朝5時から準備したわよ」と女将。屋外に簡易かまどが設置されていて、残り火が燃えていた。
 
カトマンズといえども、郊外に行けばまだガスより薪を使っている家も多い。カトマンズ在住者でも、実家がある村に帰れば、未だ日常的にかまどを使う生活の人がほとんどではないかと思う。
 
都市部では燃料調達の難しさはあるけれど、かまどの 扱いに慣れており、すぐに切り替えられるのはネパールの人たちの強み。
 
薪の方がおいしく調理できるので、カトマンズ市内には、ガス不足時に限らず、日頃から「薪調理」をウリにし ているローカルダルバート屋も多い。
 
 
 
本日午後のインド大使館近くの様子。輸送をストップしネパールに圧力をかけているインドへの抗議行動のため、学生団体が集結。
 
一昨日も、インド大使館周辺で抗議行動のため集結していた同団体を目撃していたのだが、このときは、ディロとグンドゥルック(丘陵・山岳地方に住む ネパールの人たちのソウルフード)を薪で作って食べるというパフォーマンスをしていたということを、ニュースで知った。
 
ガスや食料をインドから輸送してもらえなくても、私たちには、ディロ(※1)とグゥンドゥルック(※2)と薪があれば生きていける、と。
 
逆境に強い人たち。でも、この状態が何日も続くと、やっぱり困るなあ。
 
※1 ディロ:そばがきのようなもの。ソバの実やとうもろこしを石臼で挽き、粉状にしたものをお湯で練って食べる。
 
※2 グンドゥルック:青菜を乾燥・発酵させた保存食。
 
 

 
 

2015年9月26日土曜日

ガソリン不足で見られる光景

 
ネパール新憲法に納得していないインドがネパールに圧力をかけ始めている。

その一環として、ガソリン等燃料の輸送が止められ、カトマンズ市内でも激しく不足中。市内のガソリンスタンドは閉まっているところが多いが、どこどこのスタンドでは○時から給油するらしい、という情報が流れると何時間も前から長蛇の列ができる。

写真は、警察が管理するカトマンズ市内のガソリンスタンド近くに見られた、給油を待つ長蛇の列。今朝の様子。

横をスクーターで走りながら、一体どのぐらい続いているのか距離メーターを見ていたら、1㎞近くあって驚いた。

いよいよ深刻な状況となり、明日9月27日より、車ナンバー末尾数字の偶数奇数によって、走行許可日を分ける措置が取られることに。

明日はネパール公暦ビクラム暦の(6月)10日(偶数日)なので、ナンバー末尾偶数車両のみ走行可。翌9月28日はビクラム暦11日(奇数日)なので、奇数車両のみ走行可、というふうに。

今回に始まったことではなく、過去何度もガソリン不足でこういう措置を取られたことがある。

危険とは分かっていながらも、給油できるときにタンクでガソリンを購入、何十リットルも物置に確保し、備えておいたことも、過去あった。

2015年9月25日金曜日

インドラジャトラ初日のカトマンズダルバール広場

 
本日のカトマンズダルバール広場。ハヌマンドカに、インドラジャトラ祭開始のサインとなる、リンゴ(御柱)が建てられた。
  
 
 
 
インドラジャトラ期間(今日から8日間)のみ御開帳となる、スウェト(セト)バイラブ神。。
 
 
普段から公開されているカーラバイラブ(手前)と、奥に見えるセトバイラブ。
両方を一度に見ることができる貴重な機会。

 

最後にもう一枚、御柱の写真。左奥に見えるのはタレジュ寺院。
 
 
タレジュ寺院といえば。今まで意識したことがなかったのだが、カトマンズ西の高台にあるスワヤンブナート寺院からも認識できることを、先日はじめて知った。下の写真中央がタレジュ寺院。

本日建てられたインドラジャトラの御柱は、タレジュ寺院と同じぐらい背が高いから、今なら両方スワヤンブナートから見えるかもしれない。

2015年9月21日月曜日

ポカラバンダの日の陸路移動

 
以前から予告があった通り、ポカラを含む周辺の郡のストライキが実施されていた今日。
 
2泊のポカラ滞在を終え、陸路でカトマンズに戻るのだが、利用車両が通行妨害される可能性のある赤ナンバープレート車(一般車両)。念の為、車体の前後にTOURIST ONLYと書いた紙を貼って出発。
 
最近のバンダでは、外国人旅行者用に登録されている緑ナンバープレート車両や外国人旅行者には妨害を加えないよう、バンダ主催者側から徹底した通達がされている事が多いそうで、「外国人」であることを強調すれば、影響を受けないことが多いのだ。
 
 
本日のバンダは、新憲法に反対する一部のグルン族団体が主催している。バンダ実施エリアはグルン族が多く住む、ゴルカへの分岐点となるアブカイレニ以西~ポカラ周辺。ポカラ~アブカイレニ間は、救急車や緑色ナンバー車両を数台見かけた程度だった。
 
 

 
途中、カトマンズ発ポカラ行ツーリストバス(緑色ナンバープレート車両)とすれ違う。どれも違う会社のツーリストバスだが、他に走行車両がないバンダの日は自然と連なって移動することが多い。その方が安心でもあるし。
 
 
 
しかし、攻撃対象になりかねない一般車両(赤ナンバープレート車)や公共バス(黒ナンバープレート車)は、バンダ地域の手前(アブカイレニ)で停車されられ、長蛇の列ができていた。

ツーリストバスとはいっても外国人車両として登録していない黒ナンバープレート車両もあって、このようなバスも止められていた。

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ちなみに、対向車両がほとんどなく速度を出すことができたため、途中停車させられたり、何度か休憩を入れたりしたにもかかわらず、いつもより短い時間でカトマンズまで移動することができた。
 
=== 
 
通過した町の中心や交差点で見る事ができた、昨日地面に描かれた新憲法公布を祝うメッセージやイラスト。どれもデザインが素晴らしい。
 

≪ダマウリにて≫
通りの中心に、「新憲法ようこそ」の文字。

ここでは朝、一般車両がバンダ主催団体から攻撃されたとのことで、私たちの車両も、ダマウリ到着手前の警察チェックポストで、様子見のため一時停車させられた。警察がダマウリ現地の警察と連絡を取り、通行しても問題がないと確認をとってくれた上で、通過。

しかし、一番最初に掲載した写真に写る、私たちの前を走っていた赤ナンバー車両。私たち同様「TOURIST ONLY」と書いた紙を車体に貼ってはいたが、実際に乗車していたのはネパール人のみ。

安全性を確保できないと、さらに様子見で引き止められていたようだ。


≪アブカイレニにて≫

ゴルカへの分岐店となるアブカイレニ。T字路に描かれたネパール地図には、新しく誕生した7つの州が色分けされている。


≪ノウビセ近く≫
ネパール地図の中に「ネパール憲法2072を心より受け入れます」の文字。

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あちこちでお祝いムードを感じる中で、未だ反対している人たちもいることも、忘れてはいけないのだが。

2015年9月20日日曜日

新憲法公布


本日夕方、待ちに待った新憲法が公布された。2008年に憲法がない状態となって以降、実に7年越し。ネパールの人たち皆が待ち望んでいた日。

新憲法に反対する一部の地域はあるものの、カトマンズやポカラではお祝いムード一色。

私が今来ているポカラでも、日没後、あちこちでろうそくに火をともしお祝いする光景が見られた。


住宅街の店屋の前にて。ろうそくで描かれた「憲法 2072 ようこそ」の文字。(ネパールの公暦ビクラム暦では、今2072年)
 

 民家の前に作られたネパール国旗と、ネパール地図の中に書かれた「新ネパール」。
 

ネパール地図を縁取ったろうそくの飾りの中に書かれた「ネパールの憲法2072」。薬屋さんの前にて。


一番最初の写真やこの写真は、交差点での様子。どの交差点でも大勢の人が集まってろうそくに火を灯している様子が見られた。そして、皆で国歌を合唱する様子も。



国旗を掲げ喜びのパレードをする人たちとあちこちですれ違う。皆がひとつになっている一体感が伝わってくる。
 
地震の時もそうだったが、ネパールの人たちが一つになっている様子を肌で感じ、胸が熱くなってしまうことが、最近何回もある。
 
 
最後の2枚の写真は、旅行者街レイクサイドにて撮影。
 
地面に描かれたMy Nepal My prideの文字、国旗、地図。反対側には仏塔と智慧の眼も描かれていた。
 
「♪どこにいても、なんて言われても、どこに連れていかれても、この心はネパリさ!」という、愛国心をゆすぶられる流行歌が大音量で流れ、皆で合唱している。私も思わず口ずさむ。
 
レイクサイド、昨夕は雨が降っていたせいもあって、外国人旅行者はもちろん、現地の人の行き来も少なく、閑散として寂しい雰囲気だったのだが、本日はうってかわって、どこもかしこも大盛り上がり。



新憲法公布。ネパールの人たちにとって喜ばしい歴史的な瞬間を、私も一緒に感じることができて嬉しい。

2015年9月19日土曜日

秋の景色

 
 
午後過ぎにカトマンズを出て、今年4度目のポカラにやってきた。
 
4月、5月、7月そして今回9月。毎回車で移動しているが、同じ道でも季節によって景色は異なり、何度通っても新しい発見がある。
 


 
今回は、あちこちでススキ(に似た植物)を見かけ、秋を感じる。中でも圧巻だったのは、このルートで一番長い橋・ダマウリのマディ橋下に群生していたススキ。
 
厳密には、ネパール語で「シル」という植物。日本で見るススキに似ているが、同じものなのかどうかは不明。
 

川岸一面に広がっていて、白いふわふわ感が幻想的。飛び込んでいきたいぐらい。

 
 
空のかんじもすっかり秋の様子になっていて、雲の隙間にうっすらヒマラヤの嶺ものぞいていた。

※写真4枚、夕方5時過ぎ、マディ橋の上から撮影したもの。

2015年9月18日金曜日

ビシュワカルマプジャ

 
本日、エンジンや機械類にプジャをするビシュワカルマプジャの日。
 
オフィスでもパソコンやインバーター(蓄電式発電機)に、これからも故障なく働いてくれるよう、簡単にプジャをする。
 
 
 
プジャ用の赤い粉アビルをパソコン表面につけ、米をふりかける、という流れに、内部に入り込まないかハラハラ。プジャして故障してしまったら本末転倒。「ほどほどでいいから!」とお願いを。
 
最後にブーゲンビリアの花をバランスよくのせてくれて、せっかくなので、こんな状態のまま仕事継続。
 
=== 
 
夕方。
 
カトマンズ北寄りの自宅に帰ると地面が濡れていて、このあたりでは雨が降った事を知る。東の空にはうっすら二重の虹が!
 
 
 

2015年9月15日火曜日

ティージ前日のカジャ


最近外出が続いていて、久々のオフィスのカジャ。ティージ祭前日でもある今日。

ティージ当日断食をして過ごす女性たちが、断食に備えるためにご馳走を食べる日でもあって、オフィスでも、それにかこつけて、例年、ちょっとしたご馳走(?)を作ってもらう。

レーズンやナッツ入りプラウ(ピラフ)、ジャガイモとニガウリの炒め物、大根と玉ねぎ・コリアンダーたっぷりのアチャール、チキンカレー、それに甘いネパール菓子ミタイが、今日のメニュー。
 
沙羅双樹の葉で作られた使い捨て皿に盛りつけ。

女性スタッフたちのこの日のドレスコードは赤いサリー。

2015年9月13日日曜日

ブンガマティのクマリとラトマチェンドラナート

 
毎年雨期前に行われる雨乞いの祭、ラトマチェンドラナート祭。
 

今年も4月、巡行を始めたブンガマティ村の背の高い山車。しかしその後大地震発生。山車は村の手前の路上で止まったままとなっている。

地震で山車が一部壊れ、その後の余震等で修復作業も遅れていたそうで、今も修復が行われており、近々祭りが再開する予定だという。





山車に乗せられるはずのラトマチェンドラナートのご神体は近くの小屋に移され、参拝する人が後を絶たない。

 
 
 
この近くに生き神クマリの席も設けられ、毎朝、人々に神として祝福を与えている。
 
クマリというと、カトマンズダルバール広場内のクマリの館に住むクマリが知られているが、カトマンズだけではなく、パタンやバクタプル等ネワール族が住む町や村には地元のローカルクマリがいて、ここブンガマティにもいるのだ。
 
今日は祭日(ネパール版父の日)で参拝客も多く、普段よりも長い時間この場所に座っているということだったのだが、強い日差しで、気温も高かった今朝。
 
衣装は重く暑く、クマリ、疲れ果ててぐったり気味。不快そうな表情で体をよじらせ、肘掛けに体をもたれさせる、神らしからぬ一場面も。
 


それもそのはず、ブンガマティのローカルクマリ、着任してまだ1ヶ月もたっていない、わずか5歳の女の子。大人でも暑くてふーふー言っていたもの、神とはいえまだ幼児、大変だよね。

神としての任務(?)を果たすと、家族に抱っこされて自宅に帰っていった。

2015年9月9日水曜日

世界遺産カトマンズダルバール広場内にあるテントの学校

 
本日のカトマンズダルバール広場。
 
右上に小さくスワヤンブナートも見える。
左側のレンガの建物はクマリの館。その手前にいくつかのテントが。
 
 
 
写真では切れてしまっているが、左側に公立の学校がある。幼稚園~10年生(高校1年生に相当)までの児童生徒が通っている。
 
しかし、地震後校舎は使われておらず、校舎前(クマリの館横)に設営されたテントで、未だ授業を行っている。
 

テント数が足りず、複式学級となっているとのこと。この写真を撮っているときも、幼稚園~小学校1年生(4歳~7歳まで)の児童たちが一つのテントの中にいて、授業の初めにネパールの国歌を歌っていた。
 
地震後、カトマンズで暮らすのを恐れて、両親どちらかの実家がある村へ避難していった者も多く、児童生徒数は減ってしまったと、先生が教えてくれた。
 
こんなカトマンズの中心部、しかも、世界遺産に指定されているこの場所にあるテントが、学校のものだと知らずに通り過ぎていく旅行者は多い。

2015年9月7日月曜日

パシュパティナートの電気火葬炉

 
ヒンドゥ教寺院のあるパシュパティナート。聖なるバグマティ川の川岸には野外火葬場がある。
 
火葬の様子を一部始終眺めることができ、観光地のひとつにもなっている。
 
不謹慎のようにも思えるが、外国人観光客のみならず、火葬の様子を対岸からぼーっと眺めている現地人も多い。
 
日本では絶対に見ることのできない様子に、感極まって涙する人を何度も見てきた。死生観を考えるきっかけとなった人、価値観自体が変わった人など、たくさんいることだろう。
 
 

バグマティ川で身体を清め、儀式を執り行った後、薪に乗せられたご遺体の口に、遺族の男性が点火する。途中何度か薪をくべ、完全に火葬が終わるまで数時間かかる。

こんな火葬の様子が、変わろうとしている。



だいぶ前から建てられていた、野外火葬場近くの施設。ここには、インドの技術を取り入れた、ネパール初の電気火葬炉が2つ設置されている。(インドが初めて電気火葬炉を設置した際には、日本の技術を取り入れたそうなので、ここのも間接的には日本の技術に近いのかもしれない)
 
≪施設関係者の許可を得て撮影≫


  
先週、身元不明のご遺体の試験火葬に成功し、9月18日(アソジ・エクガテ)より本格稼働開始と。

火葬料は未定だが、従来の野外火葬代よりも安い、約3,000ルピー程になるだろうと。

火葬時間も、従来の数時間から約1時間前後と短縮になる。

川岸にあるため、従来通り、川でのお清めも含め、火葬前後の儀式も執り行える。炉に入れる前の、ご遺体の口への点火儀式や、火葬後川へ灰を流す儀式なども含めて。(点火については、形ばかりの儀式になってしまうが)

停電が多いカトマンズ。途中で停電して火葬が中断してしまうことはないのか、と、施設関係者に素朴な疑問をぶつけると、大型発電機を備えているので問題ない、とのこと。

野外火葬場の場合、昨今、薪の調達が難しいこともあるようで(環境面、技術面、費用諸々の事情で)、電気火葬炉の本格稼働後は、火葬方法が少しずつシフトしていくのかもしれない。

2015年9月6日日曜日

カトマンズとパタン、各ダルバール広場にあるクリシュナ寺院のこと

 ≪パタンダルバール広場/2015年9月5日撮影≫

クリシュナアスタミ、ヒンドゥー教クリシュナ神生誕祭だった昨日。カトマンズとパタンのダルバール広場にあるクリシュナ寺院を訪れた。

まずはパタンダルバール広場のクリシュナ寺院へ。ダルバール広場内、参拝客でかなりの混雑。

つっかえ棒をしている寺院も多く、ここで地震が起きたら、逃げるに逃げられず怖いなあ、とやや不安になる。

≪中央が石造りのクリシュナ寺院/2015年9月5日撮影≫
 
崩壊は免れたパタンのクリシュナ寺院。しかし、例年は内部上階まで参拝客で埋まるのだが、今年は内部への立ち入りを制限しており、寺院脇に置かれたクリシュナ神像をお参りする形となっていたようだ。
 
5年前のクリシュナアスタミの日、ほぼ同じ角度から撮った写真。
 
≪2010年9月1日撮影≫
 
にぎわう様子も寺院群の様子も一見何も変化ないように見えるが、上の2枚の写真左半分に柱のように写っている、旧王宮前に建てられた昔の王の像の部分が、昨日の写真ではなくなっているのがわかる。
 
=   =   =
 
次にカトマンズダルバール広場を訪れた。

 
≪カトマンズダルバール広場。インドラチョウク方面から入場/2015年9月5日撮影≫

この先を進むと右手に、 今年4月25日午前中までは、八角形のクリシュナ寺院が建っていた。

5年前のクリシュナアスタミの日の様子。

≪カトマンズダルバール広場内クリシュナ寺院/2010年9月1日撮影★≫

 
≪同上≫
 
しかし、4月25日の大地震で、土台を残し全壊してしまった。
 
地震発生日が土曜日(休日)だったこともあり、参拝客も多く、瓦礫の下敷きになった人がいる可能性がある、また、寺院裏の茶屋に人がいたという情報もある、ということで、捜索活動が行われていた場所。
 
4月28日、予定よりも1日遅れでカトマンズに到着した、日本からの国際緊急援助隊救助チームも、すぐに現場に向かい、翌日まで捜索を行っていた。(結局生存者は発見できず、その後作業は打ち切られた)
 
 
≪写真左手が崩れたクリシュナ寺院/2015年4月28日午後撮影★≫
 
救助チーム到着翌日の4月29日。朝早くから捜索活動が行われるとのことで、日本のたくさんの報道陣が待機していた。私も朝6時過ぎには現場にいた。でも、特にすることもなく、クリシュナ寺院の脇に立ち、変わってしまった周辺の様子を目に焼き付けていた。崩れ山積みになったレンガから、湿ったカビ臭い匂いが漂っていたことを、生々しく覚えている。

・・・ 

クリシュナ寺院向かい、ジャガナート寺院から朝日が昇る。
 

≪2015年4月29日早朝撮影≫
 
普段と変わらずお参りに来る地元の人たち。

そのうち、鳩の餌を売る女性が私の目の前におもむろに現れた。


乾燥させたトウモロコシの粒が入った容器を、慣れた手つきで地面に並べ始める。

逆光で見づらいが、寺院の屋根に無数の鳩がとまっていて、参拝客が餌をまくと、一斉にやってくる。ハトに餌をやるとご利益があると信じられているのだ。
 
地震後の混乱の中にも、ネパールの人たちの日常の様子を見て、この国は大丈夫、と確信した瞬間だった。
 
・・・
 
あの日から約4か月、クリシュナアスタミだった昨日。
 
寺院は全壊してしまったが、参拝客は訪れるのだろうか。気になりながら近づくと、例年と変わらない参拝客の列が目に飛び込んできた。土台しか残っていないが、皆そこをお参りしている。地震後別の場所に移されていたクリシュナの神像だが、この日のためだけにまた、この場所に置かれているとのことだった。
 
 
≪インドラチョウク側より2015年9月5日撮影≫
 
 

 ≪クマリの館側より2015年9月5日撮影★≫

4か月前と同じ場所に立ち、周辺を眺め、賑わう様子にホッとする。そして、人々の変わらぬ信仰心と日常に、またあの時と同じ気持ちを感じたのだった。
 
・・・ 
 
時系列ばらばらに、たくさんの下手な素人写真を掲載しましたが、カトマンズのクリシュナ寺院、最後に★印をつけた3枚、どれもほぼ同じ角度から撮影しています。
 
地震前、地震直後、そして昨日の様子を比べてみてください。