2015年7月31日金曜日

サブダナ(タピオカ)のキール


今日はビクラム暦4番目のサウン月15日(パンドラガテ)。キールという甘い牛乳粥を食べる習慣のある日。

毎年この日は、温かいキールがおいしく感じられるような、涼しい1日となることが多く、今年もそんな日だった。

オフィスのカジャ(昼食)でも作ってもらっているが、昨年は残念な状態になってしまったので、今年は前日に作り方のおさらいと、メニューの確認を。昨年同様、今年もバフンのスタッフが皆休みで、失敗&手抜きになりそうな嫌な予感がして。

今年は、米ではなく、簡単にできるサブダナ(ネパールのタピオカ)を使ったキールを作ってもらうことに。

他、マショウラ(大豆ミート似の乾物)のチョエラ、キュウリとジャガイモの胡麻味アチャール。スタッフからの差し入れの、マンゴーとキュウリもおまけに。

・・・

今日は暦上、先生や恩師を敬いプジャをする「グル・プルニマ」の日でもあった。

学校などでは生徒たちが先生を敬 い、登校前に摘んだ花を先生に渡したりするのだが、出勤したら、スタッフ たちが私を「グル」に見立て、赤い大きな花(たぶんガーベラ)をそれぞれくれたので、せっかくなので、それも写真のすみに。

2015年7月30日木曜日

地震で崩れたレンガ工場の煙突

 
昨日訪れたカトマンズ郊外南西ボシガウンで見かけた、レンガ工場の壊れた煙突。
 
 
 
 
カトマンズ郊外にはいくつもレンガ工場があり、広い敷地にそびえたつ背の高い煙突を目にすることが出来た。
 
しかし、レンガを積み上げただけの煙突は、地震後どれもことごとく崩れ落ちてしまた。そして、今もそのままとなっているものが多い。(写真上2枚、7月29日撮影)
 
 
 


下の写真3枚は、バクタプル郊外にあるレンガ工場。
 
撮影した5月末当時、この一帯にも、崩れたままの煙突が大小10本以上見られたのだが、今はどうなっているのだろうか。
 

 


2015年7月27日月曜日

プリティビハイウェイの橋いろいろ

 

ここのところ何年も、カトマンズ~ポカラ間を移動するときは、陸路利用。

ずっと、この区間にある橋の名前を記録したいと思っていて、先日、ついに実施。

子どもの頃の夏休み、横浜の実家から宮崎の祖父母宅へ行く際、飼い犬も連れていく関係上、片道約1400㎞を毎回往復とも車移動していたのだが、運転者(主に父)を除いた家族3人、暇つぶしにトンネルの名前と長さを交替で記録しては楽しんでいた。

ネパールにはトンネルがないので、代わりに橋が目がいった、というか。

結果、2mもなく短か過ぎて橋なのかどうなのか迷うようなものから、誰がどう見ても「橋」と呼べるものまで、カトマンズ~ポカラ間約200㎞の間に、約60本ほどを確認。名前のある橋、名無しの橋、いろいろ。橋の代りに川の名が記されているものも多い。

名前のある橋の中で、カトマンズ側から見て最初に渡ることになるのはナウビセ橋。最後に渡るのはポカラのセティナディ橋。

一番立派なのはトリスリ橋。カトマンズから見ると、マナカマナを過ぎて2番目に渡ることになる。 
 

≪トリスリ橋全景≫


≪トリスリ橋を渡る≫

この区間で一番長いのはダマウリのマディ橋。約370mあるとか。

≪マディ橋。この写真のみ2013年1月撮影≫

他、多くは、短い、こういう橋↓ がほとんど。


向かいから車が来るときは、橋の手前で停車して待機。今回の写真も、そういうタイミングを狙って撮ったものばかり。すべてポカラ側からの撮影。


以前は、木製の危なっかしい橋がもっと多かった記憶があるが、どんどん道も橋もよくなっているのだなあ、と、あらためて実感。

===

ところで、カトマンズ~ポカラ間を結ぶプリティビハイウェイ。ハイウェイといっても、山間を走る細い道。カトマンズ~ポカラの中間地点ムグリンまでは、いくつもの山を越えながら、下の写真のような川沿いの道を走ることになる。

≪マナカマナへ行くケーブルカー(ロープウェイ)から撮影≫

2015年7月26日日曜日

義援金報告3


報告2 からのつづき。

義援金の使い方

はじめは、多くの支援者や団体がしているように、私たちも、物資支援をする予定でした。

しかし、地震直後は閉鎖していた最寄りのバザール(店が何件か並ぶ場所)も、日が経つにつれて営業を再開し始め、物資も地震前と同じように揃うようになり、現金さえあれば、必要な物は手に入る状況となっている、ということを(地震から約2週間後)村の人たちに確認。

物によっては遠くの店まで行かないと手に入らず、そのためには急な山道を上り下りしないといけない、という不便な状況の村もありました。しかし、この不便さは地震とは関係のないこと。地震後後土砂崩れなどで道事情が悪くなり、行き来に時間がかかってしまう、という影響は一時的に出ていましたが、雨期の時なども同じような状況を毎年経験しており、現地の人にとってはこれが日常。

現地事情を知らないと、生活習慣の違いにおける不便さを同情に置き換えてしまいがちですが、問題の本質を見失わないよう注意しました。

・・・

(対象世帯ではありませんが)、支援物資が届いている地域には、異なる団体から同じ物が重複していたり、(長い目で見れば必要になる物でも)「今」なくても困らない物だったり、ということも多々あったようです。無駄にはならずありがたいが、支給された物資分の「現金」があれば、「今本当に必要な物」を購入出来たのに、という声もきいていました。

支援を待たずに自分達で仮設小屋を自分達で作り始めている人も多く、その際に家畜を売って現金化したり、借金をした人も多いという情報も得ました。

この様な状況を知り、(支援現場における現金支給には賛否両論ありますが)、物資ではなく「見舞金」として現金を直接渡す、という使い方をすることに決めました。

義援金の授与
 
◇1.スタッフ、ガイドたち 計23名(23世帯)へ

義援金をお寄せくださった方の半数以上が過去の利用者の方で、ネパールで一緒に行動したガイドやガイドたちの家族は無事かどうか、と、気にかけてくださっていました。ガイドたちがいたからこそ、今のネパールの状況を心配していただけたのだと実感しました。
 
専属ガイドだけではなく、フリーランスとしてかかわってくれているガイドもいて、私たちとの関係が近い者・それほど近くなく依頼時だけの付き合いの者、気の合う者・それほどでもない者など、実はいろいろいます。
 
過去のゲストの方にFBやメール等で呼びかけ、被害の有無にかかわらず、要領よく個人的に直接義援金を集め始めている者もいる、という話も耳に挟みました。
 
どこで線引きをするのか、抜け駆けしている者は省くのか、等、迷いましたが、公平にするため、ここ数年の間で、繁忙期にはほぼレギュラー同然で活躍してくれたガイドたち全員の状況を、何度かに分け個別に雑談をしながら確認することにしました。

地震発生の瞬間から直後の様子、カトマンズのアパートや村の実家、家族の様子を聞き取る機会を設けました。

関連ブログ記事:
http://dailynepal.blogspot.com/2015/06/blog-post_10.html

結果、弊社スタッフ・ガイド関係からは、次の計23名を対象とすることにしました。
 
アンカミ・シェルパ / エクラジ・マガル / カビタ・タマン / カルパナ・バケ / ジャヤ・バハドゥル・マガル / ダマラジ・マガル / ダル・バハドゥル・マガル / ダワ・シェルパ(1) / ダワ・シェルパ(2) / ナワ・シェルパ / バクタ・タマン / パサン・ラマ / パリサ・マハルジャン / ヒラ・ラマ / プスパ・マガル / プラベシュ・グルン / ホム・マガル / マノジ・ゴウタム / マヘンドラ・アチャリヤ / ミン・マガル / ラジュ・タマン / ラジュ・ラナ・マガル / レッサム・ラマ
 
特定のガイドへの義援金をお寄せ下さった方もいらしたため、このようなケースではそのご意思を尊重し、被害の大小にかかわらず、対象としました。

619日に、オフィス屋上で、軽食も兼ねた近況報告会を開き、参加できた者にはその際に一人ずつ受け取ってもらいました。

≪6月19日オフィス屋上での近況報告会の様子≫
 

◇2.弊社スタッフ3名の実家のある4地区31世帯へ。
 
被害が大きかったエリアとして、外国報道で郡名は頻繁に出てくるものの、聞き取り時には支援がほとんど入っていなかった、スタッフの実家がある村など合わせ、計4地区を対象とすることにしました。
 
しかし、これらの地区ではほぼすべての家屋が倒壊し住めない状況となっていました。地区全体を対象にすると膨大な数となり、全てに手を差し伸べることはできません。対象世帯をどう選ぶか悩み、村の代表者と相談の上、次のように決めました。
 
A:シンドゥパルチョウク郡トゥロパカル村ラマトール地区5世帯
  https://en.wikipedia.org/wiki/Thulo_Pakhar
 (事務スタッフ兼観光・トレッキングガイドのヒラ・ラマ出身村)
  
 今年1月、日本のテレビ番組撮影に協力した際、現地でタマン族の新年の様子を撮影したことがあり、その際にお世話になった家庭5世帯に絞りました。

 エム・クマル・ラマ / スレン・ラマ / エス・クマル・ラマ / ブッダ・ラマ / テンジン・ノルブ・ラマ
 
また村にある僧院も亀裂が入り崩壊の恐れがあり修復の必要があるため、僧院管理者でもあるテンジン氏に渡した見見舞い金の一部は、僧院の修復費用にも充ててもらうことにしました。
 
≪今年1月、タマン族の新年ソナム・ロサールの儀式準備中に撮影。地震前の様子≫
 
 
≪地震後の僧院内部≫
全壊は免れたが、全体に亀裂が入り、立て替えまたは大がかりな修復が必要となっている。
現在は外から木のつっかえ棒をして支えている。


≪地震後一ヶ月も経たないうちに、僧院前の広場に自力で建てた仮設小屋≫

 
 
B:ドラカ郡カタクティ村フォクテ地区16世帯
  https://en.wikipedia.org/wiki/Katakuti   
  (賄スタッフのカビタ・タマンの嫁ぎ先の村)

  2年に1度行われる村人たちの宗教的儀式があり、1年前から誘いを受けていました。地震で延期になったのでは?聞くと、こんな時だからこそ予定通り実施する、とのことで、この機会に村を訪れることにしました。そして、儀式に参列する家庭を対象とし、一家庭ずつ渡しました。(スタッフはタマン族ですが、夫はネワール族の、異民族結婚をしています)

クリシュナ・クマリ・シュレスタ  / ディル・バハドゥール・シュレスタ / ルドゥラ・バハドゥール・シュレスタ / ゴパル・シュレスタ / カドゥカ・バハドゥル・シュレスタ / クリシュナ・クマリ・シュレスタ / カル・マン・シュレスタ / バクタ・バハドゥル・シュレスタ / カルナ・クマリ・シュレスタ / テジ・クマリ・シュレスタ / リラ・マヤ・シュレスタ / ガンガ・シュレスタ / エケンドラ・シュレスタ / ラム・カジ・シュレスタ / ラジュ・シュレスタ / トゥルク・ラマ

★ABの村には524日に私自身も訪れ、Aの村では代表者に、Bの村では一人一人に直接渡すことができました。



関連ブログ:
手作りの仮設住宅(シンドゥパルチョウク郡、ドラカ郡のとある村一帯)(525日付)
http://dailynepal.blogspot.com/2015/05/blog-post_25.html

ジャガイモの葉のタルカリ(526日付)
http://dailynepal.blogspot.com/2015/05/blog-post_26.html

 
C:ドラカ郡チャンク村バル地区1世帯
  https://en.wikipedia.org/wiki/Chankhu
  (同カビタの出身村にる両親宅)
 
→5月12日に発生したM7.3の最大余震震源地近くの実家で、地滑り等の被害も大きく、カビタ本人自体も帰省できていませんでした。他の村人たちが、親戚等の手を借りて自力で仮設小屋を建てていく中、両親のところでは人手がなく、ビニールシートで雨除けするだけの暮らしが続いているとのことでした。

7月初めに、地震後初めて、カトマンズにいる弟が帰省できることになり、その際に知人と共に仮設小屋を作る、とのことだったので、見舞金を託しました。

7月23日、カトマンズに戻ってきた弟から、見舞金を利用してトタンを購入し、仮設小屋を建てることができた、とのことで、写真を見せてもらったところです。

 
 
 
D:カトマンズ郊外ラマタール村内のダリット(低カースト)居住地区を含む9世帯
https://en.wikipedia.org/wiki/Lamatar
(弊社マネージャー ラグ・ポウデル実家近くの集落)

カトマンズから近い地区であるため、早いうちから救援物資も届いていたようですが、近いが上に素通りされてしまうことが多かったと。被害のなかった村人たちで寄付を募り届けたこともあったそうで、その一環として一部を使ってもらうことにしました。

マイロ・ビシュワカルマ / ゴフレ・パリヤル / カーレ・パリヤル / ギャンペ・パリヤル / フルマニ・パリヤル / クマレ・ビシュワカルマ / ジャヌキ・パリヤル / ラム・バハドゥル・ビシュワカルマ / アキリ・パリヤル

★61日に私自身が近くの村を訪れた際に届けました。

関連ブログ:
カトマンズ郊外の村へ(61日付)
http://dailynepal.blogspot.com/2015/06/blog-post_2.html

3.身体的被害を負ったガイドの身内3名へ。

68 日、入院先のリハビリセンターへ見舞い行った様子をブログでもふれています。

サンガの脊髄損傷リハビリセンターへ(68日)

地震被害による入院や手術費、泊まり込み付き添い1名までの病院での食費等は国が負担してくれるとのことですが、その他はすべて自己負担。

病院~リハビリセンターまでの移動費や見舞い時の移動費。退院後の通院費、車いす購入費、他、すでに多大な出費が発生していることはもちろん、今後も継続して必要になることを考え、対象としました。

◇4.その他:個人的な知り合い2名へ。
 
===

以上、7月12日時点で、78名(世帯)に、合計891,900ルピー(1,114,875円)を渡しました。

被害の大小に応じ、一世帯あたり2,000ルピー~150,000ルピーを渡しています。具体的な額についてはあえて記載しておりませんが、寄付金をお寄せ下さった方で、詳しいことをお知りになりたい方がいらっしゃれば、お問い合わせいただければ回答いたします。

また、7月12日までの残金203,407ルピー(254.259円)と、13日以降にお寄せいただいた分が残っています。

今後も、継続的に現金は必要になっていきます。状況を見ながら、必要に応じて渡していきたいと考えています。

===
 

2015年7月24日金曜日

Ncell色のマナカマナ

 
 
マナカマナ周辺、ネパール民間大手携帯会社Ncell社の宣伝が強烈。
 
ケーブルカー(ロープウェイ)の真下にある二つの村の屋根はすべて、Ncellカラーの紫色に塗られている。
 

こういう光景は、カトマンズ近郊の展望地ナガルコットへ行く途中の一部の村でも見られるのだが、マナカマナのは徹底具合が目をひきつける。
 
 
 
カトマンズ~ポカラ間の幹線道路からも見える、大きなロゴも目立つ存在。

 
 

2015年7月23日木曜日

ヤギ専用ゴンドラがあるマナカマナのケーブルカー

 
 カトマンズから約100㎞ほどの場所にある、大願成就の女神を祀るマナカマナ寺院。
 
標高約300mほどの麓の町から、寺院がある標高約1380mの丘の上まで、以前は3~4時間かけて歩いてお参りに行く必要があったが、1998年にネパール初のケーブルカー(ロープウェイ)ができてからは、多くの人が気軽に出かけられるようになった。
 
願いをかなえるため、生贄用の山羊を連れていくことも多く、ケーブルカーには山羊専用のゴンドラがある。
 
 
 
人専用のゴンドラは、日本のようにエアコン装備ではないので、暑い時期には山羊専用のゴンドラの方が風も吹き抜け気持ちよさそう(笑)。
 
 

 
山羊専用の運賃も。1頭220ルピー也。
参考までに、外国人は大人20Uドル(ネパール人大人料金の約3.5倍)。
 
 
 
ケーブルカー乗り場入口には、「ヤギ乗り場はこちら」という案内版も(上の写真の青いボード)。そしてそのすぐそばには、wifiフリーのロゴも。このギャップ、好きだなあ。

===

関連記事:ネパール地震後のマナカマナ寺院

2015年7月22日水曜日

雨季中のポカラ

 
今年3度目のポカラ訪問。
 
毎年雨期中に訪問するのだが、私の滞在時に限っていえば、雨期とはいえ、早朝は案外ヒマラヤ展望確率高し。
 
・・・
 
前回の訪問は、地震から1か月経った5月末だった。

ネパール大地震の被害は、ポカラではほとんどなかったにも関わらず、旅行者が減っている感と、ホテルやレストランで働く人たちの悲壮感のようなものが、ひしひしと感じられた。

毎回泊まるシャングリラビレッジリゾートでは、地震後宿泊客が激減し、数部屋も埋まらない状況が続いていたようで、前回はお湯が出ない状態になっていた。ボイラーを作動させると一度に少量のお湯は作れず、無駄が大きいので停止していたのだ。

必要なら部屋までバケツで持っていきます、と。山のロッジや安宿ではよくあることだが、シャングリラに泊まってバケツ湯を使うはめになるとは、、、と、ショックだった。

しかし、今回は宿泊客もけっこういて、バケツ湯の必要はなし。ホテルの人も苦笑しながら、ああ、あれはあの時だけの措置でした、と。

全体的に地震直後よりも旅行者が戻り始めているのか、いつもの雨季中のポカラ、という印象で、ホッとする。

写真は7月20日朝8時頃、ホテルから撮影したもの。翌21日も、早朝素晴らしいヒマラヤが見えていた。

(ちなみに、前々回のポカラ訪問は、地震の約10日前、ジョムソン訪問前後に立ち寄った時なのだが、この時の覚書を当ブログに載せている途中で地震が来て、続きの更新が滞っている。機会があれば再開したい)

2015年7月15日水曜日

義援金報告2


報告1 からのつづき
 
●対象者の選出
 
私個人での支援を考えていた段階では、いつも仕事を共にしている、会社の女性スタッフ2人に的を絞っていました。
 
1人は、生まれ育ったカトマンズ旧市街・アサン地区の実家が半壊。古いレンガ造りながら、前回1934年の大地震でも壊れなかったという家でしたが、今回の地震で住めない状態になりました。
 
同居していた義妹が地震時に臨月で、地震の1週間後に出産するというドラマも。大きな余震が来ると崩壊の恐れもあり実家内に落ち着いて入ることができず、準備していた新生児の衣類等も手元に取り出せないまま、生後間もない赤ちゃんと共に、1か月以上、親せき宅を転々としていました。

地震前の想定では、アサン地区の地震の被害はもっとひどいものになるといわれていましたが、実際には、一見するとそれほど目につく被害はありません。しかし、外見ではわからなくても住めない状況になっていたり、アサンに住むネワール族の独得の家のつくりによるもので、通りに面さない奥にも家が続いていて、奥に行くにつれて古い建物であることも多く、そういう目につかない家々が大きな被害を受けていたりするようです。

カトマンズ郊外や地方の村々には個人や民間の救援物資が何度も届くエリアもある中、灯台下暗し、彼女のところには本日現在一切の支援も入っていません(政府からの支援については申請中)。
 
村の被災地には同情が集まりやすいですが、市内ではそういうこともなく、気づかれにくい被災者といってよいでしょう。
 
もう1人は、512日の大規模余震(M7.3)の震源地があったドラカ郡に実家が、同郡内別の場所に夫の実家がある者。
 
(村によっては、外国人個人や団体に目を向けてもらえているところもけっこうある中、外国と縁がある村人もおらず、村全体が自力で立ち上がりつつありました)
 
・・・
 
しかし、多くの方から想定以上の義援金をお寄せいただくことになり、次の通り対象を広げることにしました。
 
1.スタッフ、ガイドたち 計23人(23世帯)
2.弊社スタッフ3名の実家のある4地区31世帯。
3.身体的被害を負ったガイドの身内(3人)。
4.その他
 
これ以外にも候補に挙げていた、私たちと関わる多くのガイドたちの実家がある村がありました。しかし、その村の男性の多くがガイドの仕事で生計を立てている関係で、他の外国人組織が寄付を募り、村全体の支援を始めており、私たちは別の村へ目を向けることにしました。
 
=== 
 

2015年7月12日日曜日

義援金報告1

はじめに

このブログでも何回か触れたのですが、地震後より、私の会社の利用者の方や利用予定だった方、直接・間接的な知人からたくさんの義援金をお寄せいただきました。

712日現在、82名の方からのご厚意で、合計1,369,134円(現地通貨換金額1,095,307ルピー)が集まりました。心よりお礼申し上げます。
 
5月~6月にかけて、いただいた支援金を見舞金として対象者に渡す作業を一部終え、報告をしなければ、と思いつつ、うまくまとめることができないでいました。

ごく一部の方への報告をブログ記事にする必要があるだろうか。個別にメールでお送りするか、会社のHPに新規ページを作りそこで報告すべきだろうか?
 
ただのきれいごとだけを報告するだけでは本意を伝えることができない。でも、胸の内を語り始めると、現地にいるからこそ知ってしまう、ドロドロとした汚い現状にまで触れることになってしまい、言葉不足で誤解を招いてしまわないだろうか?

等、迷いに迷い、延び延びになっていました。

が、そろそろ地震から3か月。
 
お送りくださった義援金の行き先が気になっている方もいらっしゃると思いますので、できる範囲でまとめてみたいと思います。
 
下書きをしては消し、言葉を入れ替え、追加し、、、という作業ばかりを繰り返し、これではいつになっても前進できなさそうなので、「報告1」を思い切って更新することにしました。
 
(結局、ブログにまとめることにしたのですが、理由の一つに、直接面識はないブログ読者の方からもお申し出をいただき、お寄せくださった方がいらした、ということが挙げられます)


義援金よびかけの経緯
 
4月25日地震発生当日から、お見舞いメールや義援金を送りたいというメールをたくさんいただいていました。
 
私自身は被害は全く受けなかったのですが、地震直後の精神的に混乱している中、連日早朝から夜遅くまで取材に同行しており、皆様からのお言葉にどう対応してよいのか、ゆっくり考えることができませんでした。
 
毎日各地を周り、見聞きし触れ嗅いだ地震直後の状況や、日に日にわかっていく知人たちの被害に何度も胸を痛め、ごく身近な人たちだけにでも、個人的に何か手を差し伸べることができれば、とは思い始めたものの、義援金の呼びかけを公にすることは考えていませんでした。
 
それは、
 
私は支援については素人であり、正しいかどうかもわからない主観が入る方法に他人を巻き込んでよいのだろうか、
 
私自身約20年に及ぶネパールとの関わりの中、多くのネパール人知人がおり、その多くが直接的・間接的な被害にあっている。手を差し伸べるとしても知人全員を対象にすることはできず、境界線をどこで引くのか、
 
ということに、葛藤し続けていたことが理由です。
 
しかし、日に日に問い合わせ数は増えていき、私が何も行動に移せないうちから、過去に旅行代金をお振込みいただいていた口座宛に「義援金として使ってほしい」とお振り込みくださっていた方、現金書留で日本の実家に送ってくださった母の仕事上での知人などもいらっしゃり、現地にいる私がじっとしていていいのか、という気持ちが高まっていきました。
 
「目の行き届くところで使ってほしい」「使い方はネパールのことをよくわかっているあなた一任する」というお言葉もたくさんいただき、さらに心が動き始めました。
 
義援金のお申し出をくださった方の力をお借りし、身のまわりのできるだけ多くの被災者に役立ててもらうことも、間違いではないのだろうか、と。
 
責任を感じながらも、皆様からのお気持ちを素直に嬉しく思い、ありがたくお受けすることに決めました。
 
ただ、ご寄付いただく前に、一つお願いをしていました。
 
「被災している他のネパールの知り合いがいたり、私が関わろうとしている私の身の回りの人以外に目を向けようとしている個人や団体を知っている場合は、私ではなくそちらへの寄付を検討していただきたい」と。
 
大きな団体や支援のプロはもとより、ネパールと関わりのある日本人・外国人個人たちが、被災した人たちに個々に手を差し伸べていっている状況を見聞きし、できるだけたくさんの人が、それぞれ異なる被災者たちへ、むらなく目を向けていくことができれば、と思ったからです。
 
===
 

2015年7月7日火曜日

とうもろこしが届かないわけ



カトマンズ郊外に住む農家の人に、絞りたての牛乳を届けてもらっている。毎朝7時頃には必ずやって来る。

バンダ(Banda=ストライキ)でバスが運休の時でも朝4時に家を出、徒歩約3時間かけてやって来てくれる律儀さ。

私の家周辺だけでも、毎日20軒ほどに配達しているそう。
 
「1日でも休んで大量の牛の乳を捨てるよりは、何時間かかっても配達したほうが、無駄にもならないし収入も得られるからね」、と牛乳おばさん(こう呼んでいる)はいう。
 
しかし4月25日の大地震後は、しばらくやってこなかった。手元にある、牛乳おばさんの息子の携帯に電話をしてもつながらず、地震の被害にあってしまったのかなあ、と、気になっていた。

が、一週間後ぐらいからまた届けてくれるようになった。地震で家も家畜小屋も被害を受け、畑にビニールシートを張りそこで暮らしているという。地震後は混乱して、牛乳どころではなかったと。牛もあまりお乳を出してくれなかったとも言っていた。

このおばさん、牛乳と共に季節の野菜も届けてくれる。今の時期には、八百屋にとうもろこしが出始める前から、畑で採れたという大量のとうもろこしを持ってくるので、自宅用とオフィスのカジャ用によく購入するのだが、今年はいまだにに持ってきてくれる気配がない。

先日、「今年はとうもろこしないの?」と聞くと、「畑に仮設小屋を建ててしまったからね」とおばさん。だから、今年はとうもろこしは植えられなかったのだそうだ。

こんな形で知る地震の影響に、なんともやるせない想い。

※写真は、5月12日昼過ぎに発生したM7.3の大規模余震の翌朝の光景。この日も、牛乳おばさん来られないだろうなあ、と思っていたら、いつも通りやって来てくれて、ホッとしたことを思い出す。

2015年7月5日日曜日

夜のタメル


久々に20時過ぎのタメル地区を通った。

いつもなら、このぐらいの時間にはまだ土産物屋やトレッキング用品店も大半が営業しており、夕飯を終えた/またはこれから夕飯に向かう旅行者たちの楽しそうな姿が見られる時間。


   
しかし本日見たのは、レストランを除き閉店している店の多い、ひっそりしている夜の風景。
 
カトマンズゲストハウス周辺一帯では、賑わいも見られたが、それ以外の場所では、人通りは多少あるものの、通りには店から漏れる明かりも少なく、薄暗くさみしい感じ。
 
 
現在雨期中で、もともと旅行者が少ない時期ではあるが、それにしても。

秋からの旅行シーズンになったら、またいつもの賑わいが戻ってくるだろうか。
 
 
・・・ 
夜のタメルといえば、大地震翌日4月26日19時半頃からオフィスに用事があり、1時間ほどを過ごしていた。
 
ほんの2日前までは夜はこれから、という雰囲気でにぎわっていた時間帯のタメル地区だが、この日は見渡す限りほとんどの店がシャッターを下ろし、通行人も見かけなかった。
 
バンダ(ストライキ)が実施されている日でも、ここまで見事にシャッターが下りている光景は見られない。商店などは閉まっていても、ホテルやレストランは半分シャッターを開け営業を続けている。

それなのにこの日はホテルもすべてシャッターを下ろしていた。
 
2006年4月に続いた外出禁止令発令中も、ここまでではなかったとスタッフは言う。(当時、外出禁止令中ながら手配が入っており、スタッフは自宅に帰ると移動ができなくなるため、タメルのオフィスに寝泊まりしていた日があった)
 
しかし今回はバンダや外出禁止令とは状況が全く異なった。従業員が余震を怖がり屋内にいたがらず、一時的に営業を続けられなくなったホテルやレストランも多く、完全にシャッターを下ろしていた店が多かったのだ。
 
しかもタメル地区では、地震発生から3日間ほどずっと停電が続いていたようで、あたりは真っ暗。最近では発電機を備えている店が多く、夜の停電中でも気づかないほどのタメル地区なのだが、この日は閉めている店がほとんどのため漏れてくる明かりが全くなく、本当に真っ暗だった。
 
普段ならたくさん止まっている流しのタクシーもリクシャーも見られない。20時頃から雨も降りはじめ、真っ暗で静まり返った街に稲妻も光り出した。

平常ではない異様な雰囲気をひしひしと肌で感じながら、この先一体どうなってしまうのだろうと増していった不安な気持ちを、久々に夜のタメルを通っていたら思い出した。