ブログ移転のお知らせ

当ブログは、2021年12月より新ブログにて発信しています。新しい記事については 移転先→新日々のネパール情報 をご訪問ください!今後ともよろしくお願いいたします。

2015年6月4日木曜日

いただきもの


今年もまたすももの季節がやってきて、またネタにしてしまうのだが。

カトマンズ郊外に住むスタッフが、庭の木からとったすももを毎年持ってきてくれる。なので一度も、果物屋で買ったことがない。

・・・

いただきものといえば。

先日、ドラカ郡の女性スタッフの家に行った帰り、10㎏は入る米袋いっぱい分のじゃがいもをお土産に持たせてくれた。

ジャガイモがよく採れるそうで、訪問時にも、白や紫の花を咲かせていて、若い葉は青菜のタルカリにしてくれた。

この辺一帯も、地震の被害があった場所。
 
幹線道路では、チャリコットやドラカ、シガティ方面に向かうと思われる、救援物資を積んだ大きなトラックを何台も見かけた。

彼女の村に行くには、幹線道路をはずれ未舗装道を進む。途中の集落にある家屋も崩壊。

 
 
 
 
最近車道を作っており、乾季中は、このさらに先の集落まで公共バスも走っている。
 
 
 
 
自家用車の軽でも行けるかと強行走破を試みたものの、底を大きな石にこすりまくるわ、スリップしまくるわで、途中で断念。(底をこすりすぎ、ガソリンが漏れ始める、というハプニングも)
 
 
 
 
途中にぽつんとあった助産所に車を置かせてもらい、目的地の村から来てもらったバイクの後ろに乗り、凸凹の道をロデオ状態で移動。 
 
 
 

 

彼女の村方面へ向かう救援トラックは見かけなかったが、この村の人たちもまた被災者であり、救援物資としての食糧を受け取ってもおかしくない存在。

なのに、逆に、たくさんのじゃがいも持たせてくれるなんて。

2015年6月3日水曜日

タメルで唯一被害の大きかった場所

 
4月25日の地震直後に全壊したホテル・バジェット。旅行者が集まるタメル地区の北側にある。私たちのオフィスから200m程しか離れていない場所。
 
タメル地区の他の建物がほとんど何の被害も受けていない中、このホテルは、明らかに手抜き建築だったのだといわれている。
 
この前の細い通りが、毎日オフィスへの往復時の通勤道だった。地震後この道は意識的に避け、ラインチョウルの大通りを通っていたのだが、今週から気分的に日常が戻ったからか、無意識のうちにここまで差し掛かり、通行止めの注意書きを見て我に返った。
 
見慣れた景色ではなくなっていた。
 
 
 
 
この奥にはホテルノルブリンカとシャクティがある。瓦礫がよけられ、やっと通れる程度の道が作られてはいる。
 
 
 


ホテルは、向かいにあったドゥンゲダラ(共同水場)に倒れた。

ドゥンゲダラは、近隣が生活用水を汲みに来たり、洗濯をしたり、水浴びをしたりする場所。

私たちのオフィスではずっと水が来ず常に購入しているのだが、以前はここまでガイドやポーターたちに水を汲みに行ってもらっていたこともあった。

地震があったのは、土曜日(日本の日曜にあたる日)の正午前。朝食を終え、水場で洗濯をしたり、体を洗ったりすることの多い時間帯だったため、地震発生時にはいつもよりたくさんの近隣がここにいたのではないかといわれている。

旅行者エリアのタメル地区にありながら、庶民の生活感あふれる場所だった。
瓦礫に埋もれた変わり果てた姿が衝撃的過ぎた。

以前同じ角度から撮っていたドゥンゲダラの様子。
以前の記事:共同水場での注意 より


 

ホテルやドゥンゲダラにいて巻き込まれた方々のご冥福をお祈りします。
 

2015年6月2日火曜日

カトマンズ郊外の村へ

 
 
6月1日、カトマンズから南東20kmほどの場所にあるラマタール村を訪問。カトマンズよりも300mほど標高が高く、緩やかな段々畑の中に民家が点在する場所。
 
昨年母親がなくなり、3月末に1年の喪が明けたスタッフに、喪が明けたら食事に来るようずっと誘われていたのだ。そろそろ訪問計画たてようか、と思っていた矢先の4月25日の大地震。しばらくは、とても食事に出かけるような気分ではなかったが、やっと日常が戻り始め、気分転換に出かけることに。


 
 
視察目的でも何でもないのに、どうしても、行く先々の被害の様子が気になってしまう。
 
途中の村でも被害にあった家屋がけっこうある、と聞いていて、確かに道中ところどころ目にしたのだが、目的地3kmほど手前・ルブの町に差し掛かって愕然。れんが造りの建物が並ぶバザール周辺、崩れている家屋が目立ち、メインの通りから奥に続く細い小道をのぞき込んでも、目につくがれきの山。5月12日の余震で全壊したルブのゲートも目にする。
 
※写真4枚は、目的地のラマタールではなく、すべてルブのバザール周辺で撮影。

 

復路、ヘルメットをかぶった団体を見かけた。崩れたり亀裂が入ったりしたままの家屋をそのまま放置しておくと、もうすぐ雨季も始まり危険なので一部取り壊す作業を行うのだと。このような作業が各地で進められているようだ。


 

この辺一帯、狭い範囲ながら大きな被害が目につくのだが、瓦礫や壊れた家に囲まれながらも、収穫後の麦を地面に敷いたむしろに広げ、乾燥させている光景もあちこちで見かけた。非日常の中にも、ホッとする日常の様子が。

・・・

ところで、スタッフの家は、約1年半がかりで建て替えを行い地震前にほぼ完成していて、被害は全くなかったが、レンガ造りの古い家のままだったらおそらく全壊していただろう。

地震前、建て替えたばかりの家の屋上に出、カトマンズやパタン市街を見下ろしながらくつろぐ、新しくできた時間が楽しみだったそうだが、地震後は、被災した近隣のことを考えると、自宅にいても落ち着かず、屋上や庭で過ごす時間はほとんどなくなってしまったそうだ。

このエリアでも被害のあった家とそうでない家の差が激しく、地震後かなり早いうちから、被害のなかった村人たちが有志で寄付を出しあい被災した人たちに届けたり、所有する竹山の竹を伐採し、仮設住宅づくりのための支柱用に無料提供したりと、村人同士助け合う姿が見られた(今でも見られている)とのこと。

・・・

カトマンズからそう遠くないこともあり、屋外生活を余儀なくしている人たちには、中国が各地に配布している避難テントが早いうちに届き、また、いろいろな団体からの救援物資も届いているようだが、中には見栄で活動するような団体もあり、見ていて解せないこともあるそう。

たとえば、通り沿いの被害が比較的大きかった集落を素通りし、林の中の集落ばかりに物資が届くことが多かったり。人里離れた感のある林の中の集落のほうが、報告用として絵的に映えるのだろう。

チウラ(干し米)やチャウチャウ(インスタントラーメン)の食糧配布が多いようで、頻繁に物資を受け取る機会のある人たちが、「のどが渇くものばかりで飽き飽きした。今度は米でも持ってきてくれないかなあ」と冗談を言っているのを耳にしたり。

ここだけではなく、どこででも起きていそうな出来事だ。

2015年6月1日月曜日

一か月以上ぶりの学校再開



地震により一ヶ月以上休校となっていたカトマンズや周辺の学校の多くが、5月31日(日)から授業を再開した。(ネパールでは日曜は平日扱いなのだ)

ネパールの公暦ビクラム歴では、4月14日が新年(2072年元日)にあたるため、4月14日前から年度末休みに入っていた学校が多かった。

休みは学校によっても異なるが、4月末頃まで休みが続いていて、そろそろ新学期が始まる、という4月25日に大地震発生、その後の長引く休校で、5月31日が新学期最初の登校日となった学校も多い。

・・・

学校再開に当たり、保護者を安心させるため、校舎が被害を受けていないことを目で確認させ、事前に説明会を開いていたところが多いが、それでも不安で、ずっと校内待機していた親や、引き続き自主欠席させていた親など、保護者によっても対応はいろいろだった模様。

 しばらくは授業時間を短縮しての開校とし、校舎に何の被害がなくても、庭にテントを張り屋外クラスとしているところも多いようだ。

写真はカトマンズ市内にある、日本の幼稚園(2歳~6歳ぐらいまでが在籍)に相当するクラスを持つ、私立学校の様子。

この学校では、建物の中に入るのを怖がる子もいるそうで、庭に張ったテント内での活動を中心に、室内で過ごす時間を徐々に作って行く計画とのことだった。

2015年5月30日土曜日

ゴルカ王宮裏で見かけた簡易シェルター

 
5月27日、ゴルカ王宮を訪れたときのこと。
 
王宮裏の車道の最後まで車移動し、下車後すぐ。ヒマラヤをバックに、見かけない形の簡易シェルター二つ。
 
近くに長髪の男性が。アート専攻のネパール人で、シェルターづくりの指導に当たっているのかと思いこみ、「これ、あなたのアイディアで教えているの?」とネパール語で尋ねると、英語での返答が。
 
「あなたネパール人じゃないの?」と英語で聞き直すと、「ジャパニーズ」との回答。
 
まさか、こんなところで、このタイミングで日本人にあうとは思ってもいなかったので、驚いてしまった。彼も驚いたことと思う。
 
 
≪王宮に続くこの道の手前でシェルターを見つけた≫
 
きくと、王宮裏の見晴らしのいいここにある知人の家を、毎年訪れているそう。
 
今回はこの簡易シェルターの作り方を知人たちに覚えてもらっているのだと。ゆくゆくは、必要な時に、知人たちを通じて、各地で広めていければいいなあ、と。
 
こんな意外な場所で、熱い想いをもって行動している方に出会い、感激。
 
・・・
 
ところで、このことを、ツイッターやブログで発信してよいか尋ねると、快諾して下さった。
 
「ちなみに、日々のネパール情報 という名で発信してます」と伝えると、あー見てる!との反応。
 
こんな意外な場所で、読者の方に遭遇したことにも、びっくりするとともに感激!でした。

2015年5月26日火曜日

ジャガイモの葉のタルカリ

昨日のつづき。

賄いスタッフの夫の実家で出されたダルバートに、青菜のタルカリがあった。食べ終わってから聞くと、ジャガイモの葉を使っていたそうだ。初めて食べたが、おいしかった。

ネパールの山間部では、ほぼ自給自足の生活をしている村が多い。この村でも、ダルバート用のお米やダル、塩や砂糖などは歩いて1時間ほどの場所にあるバザールで買っているが、野菜は、種類は多くないけれど、畑で収穫できている。売って現金化できるほどではないが、とりあえずこの先1か月ぐらいは、自分たちが食べていけるだけの収穫はある、と。

・・・

地震後、民間や個人の援助で、幹線道路沿いの集落で食糧が配られている様子をあちこちで見かけた。

しかし、幹線道路を少しそれただけで、行き届きにくくなる。この村にも届いていない。カトマンズに出稼ぎに出ている同村出身の有志たちが、地震後食糧を届けてくれた程度。

でも、大丈夫だという。在庫の米などは壊れた家から取り出すことができたし、米がなくなれば、畑で採れるジャガイモでもディロ(とうもろこしやそばの粉をお湯で練ったもの)でも食べればいいのだから、と。常にダルバート(ご飯とダルスープ)を食べなくても、死ぬわけじゃない、と。

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家を失っても、身体が無事だった村の人たちは、自分の力で少しずつ生活を建て直している。

「支援などあてにできないから、自力でがんばるしかない」という肩肘張ったものではなく、自分たちが支援してもらえる立場にあることにすら気づいていなくて、大変な目にあい皆困っているから周りで助け合って生きている、ただそれだけのこと。

今の状況を受け入れ、欲もなく健気に生きている村人は、各地の被災村にも、きっとたくさんいるのだろう。

2015年5月25日月曜日

手作りの仮設住宅(シンドゥパルチョウク郡、ドラカ郡のとある村一帯)


昨日、シンドゥパルチョウク郡とドラカ郡にある女性スタッフたち(事務スタッフと、賄いスタッフ)の実家(夫の家)がある村を訪れた。

1年程前から賄いスタッフには、5月末に村で大きなプジャがあるから見に来てほしい、と言われていたのだ。通常の日々を送っていたら、休みもないこの時期に私が行くことは不可能だったが、地震の影響で思いがけず時間もでき、地震の被害が大きかったといわれるこれら二郡の現地の様子をこの目で見ておきたい、という思いもあり、これを機に行ってみることにした。

・・・

地震後はじめて帰省する彼女たち。

厳密には、事務スタッフは地震から一週間後に一瞬だけ帰っていた。地震翌日からネパール入りしていた報道クルーの方に同行していて、「シンドゥパルチョウク郡で被害にあった村を撮影したい」という要望に、自分の村へ案内していたのだ。変わり果てた実家を見たときは言葉にならなかったという。

その時の動画:

ゆっくり周辺を見て回る時間はなく、ニュース素材撮影目的で20分ほど滞在しただけで、すぐ別の目的地に向かったから、事実上、今回が地震後初めての帰省に等しかった。


 


彼女たちから聞く事前情報では、村の家々はほぼ皆倒壊し、皆大きなビニールシートを張って、その下で生活している、とのことだった。

しかし、実際訪れてみると、ビニールシートはほとんど見当たらない。彼女たちの村だけでなく、周辺の集落でも。

その代り、新築or増築したてのような、トタンや木材を利用した家々が目立つ。




きくと、壊れた家のトタン屋根をはがしたり、足りない分は新たに購入したりし、村人たちで協力しながら、一軒ずつ作っていったのだという。

賄いスタッフの夫の実家は、素人たちだけで作ったとは思えない2階建ての質素ながらにも立派な作りで、驚いた。村の人たちはたくましい。




壊れた家の壁の一側面を利用し、そこに増設する形で作られている家もあった。上の写真もそう。壊れて住めなくなった白い石造りの家の一側面を利用し、写真手前側のように、木材を利用した仮設の家を作っている。



村への分岐点にある集落、ムデ(標高約2500m)のバザールにも、ぴかぴか光るトタンの家が。

・・・ 

4月25日の地震からほぼ一ヶ月。まだまだ公の支援など届かない村の方が、たぶん多い。彼女たちの村もしかり。

支援を待ち、いまだビニールシート生活をしている人も多いように聞く。その方が同情も得やすく、あえてそうしている人も、もしかすると中にはいるかもしれない。

しかし、今回訪れた周辺一帯、支援等あてにせず村人同士協力し合い、さっさと前進している人たちもいることに、嬉しくなった。

・・・

実は、今回の村訪問にはもう一つ別の目的があった。それは、過去の利用者の方や私の両親の知人たちから寄せられた義援金の一部を届けに行くこと。

地震直後から義援金に関するたくさんの問い合わせをいただいた。私は援助等の分野では素人だから、正しい支援方法は分からない。個人レベルの活動に、他人を巻き込んでよいのだろうか、という葛藤はあった。でも、皆様のご厚意を嬉しく思い、お申し出いただいた方には個別に私個人の想いをお伝えしたところ、賛同してくださった方も多く、5月22日時点で約60万ルピー(約75万円)をお寄せいただくことができたのだ。

その後の報告や今後の方針などについても、更新しなくては、と思いつつ、なかなか自分自身満足できる文章にまとめることができず、延ばし延ばしにしてしまった。

村訪問の様子と私の想いを混ぜ込みながら、これから少しずつブログに更新していきたいと思いますので、お付き合いください。

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手作り仮設住宅の中の様子、今回の村訪問の様子は、旅するフォトグラファー有賀正博さんのブログにも掲載いただいています。

2015年5月23日土曜日

目に見えない地震のつめあと

 
夕方5時過ぎ。近所の八百屋にいたときのこと。
 
突然あたりが薄暗くなり、吹き荒れる突風。木、電線が揺れ、ゴミと砂埃が巻き上がる。近くでたき火をしていて、風にあおられた炎が、一階建ての建物よりも上まで大きく燃え上がる。
 
トタン屋根がバタンバタンとあおられる音が聞こえる。何かがガッシャーンと落ちた音も聞こえる。
 
 

こんな状態がしばらく続き、通行人は皆、空を見上げながら、店の軒下に避難。

子供達は口々に「地震が来たー」と怯え、大人たちに「地震じゃないよ!」と諭されるも、子供も大人も不安そうな表情。

通りで遊んでいた、八百屋の店主の娘(12~13歳)は、店に駆け込んでくると母親にしがみつきながら、「怖いよー」と泣き出した。

今回のこの嵐は、地震とは関係ないけれど、皆、確実に地震のことを思い出していた。

そろそろあの地震から1か月。ネパールの暦では、5月26日(ジェト月12日)が、一ヶ月目の節目にあたる。小さな余震はまだ続いているが、休校となっていた多くの学校も5月31日から再開するところが多く、日常が戻ろうとしている。

でも、地震が人々の心につけた不安というつめあとは、なかなかぬぐえそうにない。

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突風が吹き荒れた後、雷、豪雨と続き、最後に虹が現れていた。

2015年5月22日金曜日

今年も例年通り出没し始めたライチ売り


カトマンズ市内、走る車両も営業している店も、平常時に比べると明らかに少なくて、「余震を恐れてカトマンズを脱出している人が多い」という状況を実感している今日この頃。

インド人や、南の方出身のネパール人がやっていた店も閉まっているところが目につく。

昨日、地震後久々に行ったダルバート屋では、いつもはたいていある魚のカレーが置いてなくて、聞くと、なじみの魚屋がインド系ネパール人でカトマンズからいなくなってしまったからだ、とのことだった。また別のところでは、行きつけの散髪屋がインド人経営で、地震後ずっと閉まっていて困っている、という話を聞いたことも。

そんな中、本日1年ぶりに、いつものあの場所にライチ売りが出没し始めた。彼らも、インド系の人たち。

昨年の記事: http://dailynepal.blogspot.com/2014/05/blog-post_26.html

旬になると10人以上のライチ売りが並ぶこの通りだが、今日は2人だけ。でも、近くを徐行すると駆け寄って売り込みに来る気合は今までと変わらない。

これからどんどん増えていくのかしら。カトマンズを離れてしまった人たちの話を聞いたばかりだったから、こんな状況の中、例年と変わらぬ出没ぶりに、嬉しくなってしまった。

(写真右端が、ライチの束を差し出しながら、こちらに向かってくるライチ売り)

2015年5月19日火曜日

地震でコント並に再び崩れた軍施設の外壁

 
近所にある軍の施設の、高くて長いレンガの外壁。
 
 
昨年7月に降った大雨で、いとも簡単に崩れ落ち、当ブログでも話題にしていた。
 
その後、4月25日の地震発生前日まで、修復工事が続けられていた。資材や壁破壊後の残骸を公道に山積みにし、周辺歩きにくい状態にしながら。
 2 月23日時点のツイッター記事: 
 
普通に修復するなら半年以上もかからないから、これを機に補強しているのだろうと思っていたら、4月25日の地震で、修復途中の壁がまた崩壊(冒頭の写真。4月26日撮影)。
 
昨年7月のときよりも長い範囲で。修復が終わっていた部分も含めてすべて。
 
半年以上も時間をかけて、一体、何してたんだろ?
 
B級コント並の見事な崩壊っぷりに、不謹慎ながら、思わず声を出して笑ってしまった。
 
横を歩いていた一般庶民に被害がなかったのは本当に良かった。
 
・・・
 
今回の地震後では、政府や軍、警察関係の外壁がことごとく壊れている光景を、あちこちで見かけた。
 
たとえば、


バルワタールにある、首相公邸の外壁とか(↑4月25日撮影)、


ナラヤンヒテイ王宮博物館(元王宮)正門横の小さなゲートとか(↓4月25日撮影)、

 博物館に隣接する軍施設の外壁もことごとく崩壊(↓2枚とも4月25日撮影)。



このほか、マハラジガンジにある大統領公邸の外壁、元国王が住む家の外壁、ナクサルにあるポリスヘッドクウォーターの外壁、その他あちこちの軍・政府関連施設で目撃。

中には、道路拡張工事により、つい最近新しく作り直したばかりの壁もあるのに。

周辺の一般庶民の家の壁は何ともないのに、この差はいったい何?

2015年5月16日土曜日

5月12日の大きな余震と4月25日本震時のこと

 ≪5月12日の大きな余震発生後、屋外に飛び出した人たちで騒然とするタメル地区≫

4月25日に発生したM7.8のネパール大地震後、徐々に余震も少なくなり、カトマンズに限って言えば人々が日常を取り戻し始めていた5月12日昼過ぎ。再びM7越えの大きな地震が発生した。

私はタメルのオフィスにいて、同じ部屋には女性スタッフが一人。

事務作業をしていて、彼女が突然宙を見上げて「あれ?あれ?」と2回繰り返したのを覚えている。私が「どうかした?」と言おうと口を開くと同時に、ガタガタという強い揺れ発生。

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4月25日本震発生時は、土曜日だったこともあり、自宅にいた。たまたま庭に出ようと玄関近くにいたときに地震発生。目の前にいた小さな息子を抱えて逃げようと、わきの下に手を入れようとするもののうまく行かない。自分自身の動きを全くコントロールできない。

玄関わきに置いている台の下にもぐろうかと一瞬思ったが、ネパールでは建物倒壊の恐れもあり、まずは屋外に逃げろという。机の下に隠れているどころの生易しい揺れではない。とにかく屋外に逃げないと圧死するかもしれない、と、無我夢中で息子を抱えあげ、転げるように、這うようにして庭の中央へ逃げ出した。履物を探す暇もなく、裸足のままで。

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5月12日も、地震だ!と気づいた直後、出来れば屋外に逃げ出したかった。しかしオフィスは2階にある。揺れがどの程度続くのか、自分の行動をコントロールできるほどの揺れなのか、即座に判断できない。スタッフが「机の下!」と叫び、この状況だとそれが最善方法だと私もとっさに判断し、とにかくもぐる。しかし、机がずれ動きうまく隠れられない。本震と同じぐらい強く揺れている。

本震では被害は全くなかったオフィスの建物だが、その後の余震で見えない部分がもろくなっている恐れはある。揺れが続くと、本震後、各地で目にした倒壊した建物のように、ここも崩れ私も目の前の壁につぶされるのではないか、という恐怖に襲われる。


≪地震発生後、オフィス裏の駐車場に避難するスタッフたち≫
 
幸い、本震とは違い揺れはすぐに収まった。その隙に、外へ行こう!と、隣の部屋にいたスタッフたちを確認すると、すでにもぬけの殻だった。地震と気づいた直後に、他のスタッフたちは皆屋外に逃げ出したようだ。切羽詰まった状況ながら、皆の逃げの早さ(言葉は悪いが)に感心しつつ、自分も階段を転げそうになりながら駆け下りる。


 
≪大きな余震で皆外に飛び出し、騒然とするタメル地区内オフィス前≫
 
タメル地区内、4月25日の本震後はしばらくシャッターを下ろしている店も多かったが、5月12日朝の時点では、近所の店は8割方あいていた。

しかしこの地震後皆屋外に飛び出し、次々にシャッターを閉め出し始めた。車やバイクのエンジンをふかし、慌てて逃げだす人々も。皆が皆冷静さを欠き、騒然とし、異様な光景だった。

賄いスタッフは、休校となっている子供たちを今日に限って家に残してきており、子たちの安否を確認すべく、青ざめて家に電話。先日の地震で家に住めなくなった、アサン出身のスタッフも、半泣きで避難先の家族に電話、、、。

その後、私たちのオフィスも閉めることに。

・・・ 

翌日(5/13)はまた、本震翌日(4/26)の時と同じように、タメル地区、9割以上の店はシャッターを下ろしたままだった。

その後徐々に営業再開する店も増えたが、15日昼過ぎに起きた余震で、またシャッターを閉めだす店続出。

また振り出しに戻ってしまったかのような絶望感。

明日(5/17)は週初め。ネパールでは日曜は平日。皆が徐々に日常を取り戻してくれるとよいのだが。

2015年5月11日月曜日

地震発生当日(4月25日)のガイドの状況(6) (パタン訪問中)

 
2年に一度改定されるガイドブック地球の歩き方。8年前より私も改訂前の最新調査取材のお手伝いをさせていただいている。けっこうな量があるので、スタッフたちにも手伝ってもらって。

次回は、今年7月改訂予定で、それに先駆け2月頃から調査が始まり、最終の調査を5月半ば頃までに終わらせるべく準備をしていたところだった。

4月末期限の調査依頼もいくつかあったのだが、電話確認だけだと十分把握しきれない内容がパタンにあり、25日(土)休日を利用してパタンへ行く用事がある、という女性事務スタッフのPに、調査をお願いしていた。

パタンダルバール広場に向かうべく、入口よりやや東側の、駐車場がある付近を歩いていたときに地震発生。

何が起きたかわからずしゃがみこむ。周りでは叫び声が聞こえる。そのうち、ダルバール広場方面から白い煙が上がるのが見えたと。

広場内の寺院がかなり倒壊しており、倒壊時に巻き起こった埃だったようだ。

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私も、地震発生3日目の427日にパタンダルバール広場を訪れた。あちこち崩れた建物を見てきた後で、もう気持ちがいっぱいいっぱいで写真を撮ることができなかった。

その後、地震発生からちょうど2週間たった5月9日にも用事があり訪れたのだが、瓦礫はかなり整理され、整然とした様子に変わっていた。(写真2枚)

現在、一般観光客の立ち入りは制限されている。


・・・ 

ちなみに彼女の家はカトマンズ旧市街のアサンにある。レンガ造りの古い建物が密集する地区。家は全壊は免れたものの亀裂が入り一部崩れ、もう住めない状態になってしまった。
 
もともとアサン出身のため、帰れる場所がない。代々ここに住んでいて、早くに亡くなった父親との思い出もある家。地震発生から数日後、身の回りの物を取り出すため一時帰宅していたのだが、余震を恐れ長いできなかったと。戻ってきた後、泣いていた。

父親がいないから、彼女が家計を支えている。母親と、弟とその妻も同居していて、妻は地震後一週間後に出産。今は新生児含め5人で、親戚の家を転々としているそうだ。
 
いろいろとドラマが多すぎて、言葉にならない。

・・・ 

地震発生当日(4月25日)のガイドの状況(5):カトマンズ空港送迎

前回の続き。


早い人だと、この日からゴールデンウィークの休暇に入る人も多く、GW中の旅行者第一弾のお迎えがけっこう入っていたこの日。

正午過ぎカトマンズ空港着タイ航空便でネパール入りされるゲストの中には、耳の聞こえない方もいらした。

過去何度か、耳の聞こえない日本人のトレッキング手配をさせていただいたことがあり、英語と日本語の筆談や、簡単な手話での会話に慣れているガイドがいて、今回のゲストにも、彼を調整していた。


空港お迎えも、このガイドが担当。

地震発生時、彼は、空港から4㎞程離れているオームホスピタルにいたという。知人が入院していて、空港と同じ方向にあるし、明日から2週間ほどトレッキングでカトマンズを離れることになるので、見舞っておこうと、ついでに寄ったのだそうだ。

病室内でもかなり揺れ、とにかく屋外に逃げなければ、と、3階の病室から階段を転げるようにして外へ。どうやって屋外に出たか、まったく覚えていないという。

時計を見ると、タイ航空機到着の時間が迫っている。とにかく空港へ向かわねば、と、急ぎ足で15分ほどで移動。道中、寺院の屋根が傾いていたり、レンガ造りの家が崩れているのを目にしながらも、何が起きたか呑み込めず、無我夢中だったという。

パシュパティナート近くを通過時、ヒンドゥ教関係の白い服を着た団体が、皆で手を取りながら「オーム・シャンティ、オーム・シャンティ・・・」と大声で唱えている場に遭遇。気が動転していた彼、一緒に唱えれば気持ちが冷静になるのではと思ったのか、(自分でもその時の心理が理解不能で思い出すと自分の行動がおかしいというのだが)、その輪の中に入り、しばし唱え続けていたのだと。

我に返り、こんなことをしている場合ではない、早く空港へ向かわねば、と、再び歩き出す。

空港に到着したものの、大通りに面したゲートが封鎖されていて、中へ入れてもらえない。

迎えがあるから、と、門番に頼み込んでも、「今日の便はすべて欠航だ」といわれ、入れてもらえない。

1時間ほどゲートで待っても開けてくれる様子はなく、周りも皆引上げ始めたので、彼も急いでカトマンズ市内のアパートに戻ると、若い妻が泣きながら待っていたそうだ。

・・・

帰宅時、バスもタクシーもとまっており、空港から、ゴンガブを抜け、さらに北方面までの7km程の道のりを歩いて移動。

被害の多かったゴンガブ地区では、道中に死傷者がゴロゴロしており、目をそむけつつ通り過ぎたと。そのことを思い出しながら後日、「電話もネットもつながらなかったし、画像つきの現地状況を報告できずにごめんなさい」と。

日本のテレビ番組撮影時などにもアシスタントとして同行することの多い彼、1日の終わりには、画像つきで的確な報告をしてくれる。普段でも、旅行やトレッキングに関係ある情報があると、すかさず写真を撮りviberで送ってくれるのだ。でもこの日は平常心を失っており、それどころじゃなかった。今思い出すと発信すべきことだったのに、と詫びてくるのだ。

あたりまえだよ、そんな場面を送ってくれても絶対に使わなかった。撮ってくれなくてよかったよ、とねぎらった。

・・・

結局この日、地震発生後カトマンズ空港は閉鎖され、離発着予定だったフライトはすべて欠航に。

カトマンズ上空まで来ていたタイ航空機は、インドのコルカタ空港に緊急着陸後、バンコクへ引き返すことになった。

(画像は、地震翌日4月26日午前中のカトマンズ空港。ネパールを脱出しようとする旅行者で混み合い、駐車場にまで人があふれ出していた)
 
つづく。

地震発生当日(4月25日)のガイドの状況(1)とチュルピ
地震発生当日(4月25日)のガイドの状況(2):カトマンズ、ナガルコット観光
地震発生当日(4月25日)のガイドの状況(3):ランタントレッキング
地震発生当日(4月25日)のガイドの状況(4):ゴーキョピークトレッキング
地震発生当日(4月25日)のガイドの状況(5):カトマンズ空港送迎
地震発生当日(4月25日)のガイドの状況(6):パタン訪問

地震発生当日(4月25日)のガイドの状況(4):ゴーキョピークトレッキング

前回の続き。
 

ゴーキョピークとレンジョラパスを予定していたトレッキングガイドのRは、ナムチェに2泊し高度順応を終え、ドーレまで移動する途中で、地震にあった。

当日朝、ナムチェを出発し、モンラあたりへ移動したときのことだったという。

周辺では石や岩が崩れてきたりもし、ゲストと共に、木ににつかまりながら一時待機。その後、先へ進むか、引き返すか、で、迷ったようだが、とりあえずナムチェに戻り様子を見ようと、下山することに。

カトマンズ同様ナムチェでも余震が続き、おびえるトレッカーや現地住人たちの多くが、アーミーキャンプ近くの広場に待機していたという。

翌日すぐ下山しようとしたが、余震も続き、建物の倒壊、地滑り等の心配もあるため、ナムチェ~ルクラの道は軍によって封鎖。通行できるようになってからも、慎重に移動し、いつもより時間をかけて移動。カトマンズに帰着できたのは5月2日だった。

画像は、下山前にガイドがViber経由で送ってくれたナムチェ周辺の写真。

・・・

ところで、5月9日付け野口健さんのブログに、ゴーキョ方面の被害状況が掲載されていた。
http://www.noguchi-ken.com/M/

ドーレは9軒あるロッジがほぼ全壊に近い状況とのこと。ガイドたちも、当日下山を選んだのは正しかった。

このブログを拝見し、このような状況での冷静な調査報告に敬服するとともに、ネパールへの思いを感じ、胸が熱くなる思いです。

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つづく。

地震発生当日(4月25日)のガイドの状況(1)とチュルピ
地震発生当日(4月25日)のガイドの状況(2):カトマンズ、ナガルコット観光
地震発生当日(4月25日)のガイドの状況(3):ランタントレッキング
地震発生当日(4月25日)のガイドの状況(4):ゴーキョピークトレッキング
地震発生当日(4月25日)のガイドの状況(5):カトマンズ空港送迎
地震発生当日(4月25日)のガイドの状況(6):パタン訪問

地震発生当日(4月25日)のガイドの状況(3):ランタントレッキング

前回の続き。

今回の地震で被害がかなり出ており、雪崩と地滑りで流された村もいくつかあるとされている、ランタントレッキングエリアに、トレッキングガイドのAはいた。

スンダリジャルから歩き始め、ゴサイクンダを越え、キャンジンゴンパをめざし一度シャブルベシへ下山した後、タマンヘリテイジ方面のタトパニへ足を延ばす、という、15日間のトレッキングの終盤で、地震発生当日はタトパニ泊の予定だった。

しかし、現地で予定を変更しており、当日の朝タトパニを出発、地震発生時は高原状の地形のナグタリにいたという。

たまたまの予定変更が、結果的に難を逃れることになったと、お客様はおっしゃっていた。「ナグタリでは山崩れなどなく安全な場所だった」、と。

ガイドによると、当日朝出発したタトパニは、「地震発生後、村ごと流された」、という情報もあるそうで、当初の予定通り行動していたら、もしかすると今頃、捜索対象になっていたかもしれない、と。そう考えるとぞっとする。無事でいてくれて本当に良かった。

また、ゲスト曰く、「地震当日の朝の温泉浴場で撮影した写真を確認したら、白人系の人物が映っており、トレッカーがいたことは間違いないと思う。しかし我々がシャブルベシに下山した日、タトパニ方面からおりてくるトレッカーや地元民は目にしなかった」、と。

当日タトパニにいた人たちは、無事なのだろうか。

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ちなみに、ランタン地方の情報は、地震発生後もしばらくほとんど入ってきていなかった。

地震発生4日目の4月28日朝、記者さんの取材同行のためカトマンズ空港に待機していたところ、民間ヘリコプターのパイロットである知人とたまたま行き会った。彼曰く、「たった今、日本人4人をランタンから救出してきたところだ」「ランタン、ゴラタベラあたりは壊滅的だね。村がなくなっていたよ」、と。すぐには状況が理解できなかった。

また28日に無事カトマンズに帰着したガイドも、「村もトレイルもなくなり、この先しばらくはランタントレッキングはできないのではないか」、と言っており、徐々に事の大きさを実感する。

その後、現地から救出されたトレッカーなどがyoutubeにあげている地震発生時の動画などを見て、大変な状況だった(そして今も)ことをあらためて認識。

ガイドたちが定宿とするランタンのロッジも流され、亡くなった従業員たちもいるという情報も入ってきて(オーナーはたまたまカトマンズに出てきていて無事)、想像を絶する状況と、被害の大きさに愕然としている。

このエリアでは、いまだ行方不明者も数多くいるとのことで、早く消息が確認されることを祈っている。

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つづく。

地震発生当日(4月25日)のガイドの状況(1)とチュルピ
地震発生当日(4月25日)のガイドの状況(2):カトマンズ、ナガルコット観光
地震発生当日(4月25日)のガイドの状況(3):ランタントレッキング
地震発生当日(4月25日)のガイドの状況(4):ゴーキョピークトレッキング
地震発生当日(4月25日)のガイドの状況(5):カトマンズ空港送迎
地震発生当日(4月25日)のガイドの状況(6):パタン訪問

地震発生当日(4月25日)のガイドの状況(2):カトマンズ、ナガルコット観光

前回の続き。

チトワンツアーを終え朝チトワンを出発し、専用車でカトマンズに戻ってくるゲストの市内観光予定があった。

担当は観光ガイドのR。カトマンズに向かうドライバーと連絡を取り合い、正午過ぎにスワヤンブナートでゲストたちと落ち合う予定となっていた。

ゲストの到着までタメルで時間をつぶしているときに地震発生。その後、ガイドは道幅の狭い近道ではなく、建物倒壊の恐れのない広い道を選んで、スワヤンブナートまで歩いて移動。

地震の影響かカトマンズを目指す車の移動にも時間がかかり、ゲストがスワヤンブナートに到着したのは、夕方近くなってから。

周辺の被害状況から観光どころではない非常事態であることはガイドも感じていたが、その時は、とりあえず予定通り案内しないと、と、スワヤンブナート敷地内まで入ったそうだ。

本日現在、倒壊の恐れのある建物などもあり、一般観光客の入場を一時制限しているスワヤンブナートだが、地震直後は状況把握に時間がかかっていたためか入場制限はされていなかったとのこと。

しかし、仏塔周辺の建築物がかなり崩壊しており、瓦礫が散乱し、歩けるような状態ではなく、早々に引き上げることにしたと。地震発生から約3時間後ぐらいの出来事。

参考記事: 地震後のスワヤンブナートの様子

次に、観光予定だったボダナートまで行き、手短かに観光。

参考記事: 地震後のボダナートの様子

この日はナガルコットに1泊予定があり、ナガルコットまで移動。

宿泊予定だったクラブヒマラヤ(ナガルコットで一番良いホテル)では、地震後宿泊客をすべて屋外に出し、閉鎖している状態だった。

他に泊れるホテルはないかと当ったが、周辺少なからず何らかの目につく被害があり、どこも泊れる状況ではないと判断し、日は暮れていたが、カトマンズに戻ることに。

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(補足)
ナガルコットのホテルについては、5月8日に私たちがよく手配する中級以上のホテル(カントリービラ、フォート、クラブヒマラヤ)に電話確認したところ、どこも少なからず被害を受けていて、現在閉鎖中と。

同エリアの他のホテル、ゲストハウスもだいたいどこも同じような状況で、少なくとも5月いっぱいは閉鎖予定だというところが多い。

その後は旅行のオフシーズンに入ることから、秋の旅行シーズンまでは、修復や補強作業で休業するホテルがほとんどなのではないかとみている。

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つづく。

地震発生当日(4月25日)のガイドの状況(1)とチュルピ
地震発生当日(4月25日)のガイドの状況(2):カトマンズ、ナガルコット観光
地震発生当日(4月25日)のガイドの状況(3):ランタントレッキング
地震発生当日(4月25日)のガイドの状況(4):ゴーキョピークトレッキング
地震発生当日(4月25日)のガイドの状況(5):カトマンズ空港送迎
地震発生当日(4月25日)のガイドの状況(6):パタン訪問

2015年5月10日日曜日

地震発生当日(4月25日)のガイドの状況(1)とチュルピ


時々お願いするフリーランスのガイドが、昨日カトマンズに戻ってきたとのことで、山土産のチュルピ(かたい乾燥チーズ)を持ってきてくれた。

チュルピについては、昨年8月、チャリコットとドラカを訪問した際に、通過したムデ村で売られている様子を、このブログでも話題にしたことがある。

以前の記事: http://dailynepal.blogspot.com/2014/08/3.html

彼は今回、欧米人を対象にしているトレッキング会社からの依頼で、カンチェンジュンガエリアのボクトピークというところを登頂後、ボクトピークBCにいるときに地震にあったそうだ。現地ではそれほど大きな影響はなく、皆無事に、昨日カトマンズに戻ってくることができたとのことだった。

私たちの専属ガイドたちも、地震当日は各地に出ていた。地震直後にはスタッフたちと手分けしてガイドとお客様の安否確認を行ったが、携帯電話が通じにくかったり、通じてもよく聞き取れなかったり、その後停電が続き携帯の充電が切れしばらく確認できなかったり、と、手間取った。

確認できても、詳細は聞けずとりあえず無事かどうか、という点を簡潔に話しただけだった。一段落した今、皆の当日の状況をあらためてゆっくり聞き取ることができている。

私自身の記録も兼ねて、いくつか掲載したい。

カトマンズがほぼ平常に戻っている今、地震発生当日の様子を聞き書き起こすと、「そんな大げさな!」という感じを受けるかもしれないが、当日は皆混乱し、無我夢中だったのだ。

つづく

地震発生当日(4月25日)のガイドの状況(1)とチュルピ
地震発生当日(4月25日)のガイドの状況(2):カトマンズ、ナガルコット観光
地震発生当日(4月25日)のガイドの状況(3):ランタントレッキング
地震発生当日(4月25日)のガイドの状況(4):ゴーキョピークトレッキング
地震発生当日(4月25日)のガイドの状況(5):カトマンズ空港送迎
地震発生当日(4月25日)のガイドの状況(6):パタン訪問

2015年5月9日土曜日

つっかえ棒だらけのパタン旧市街


パタンドカ(門)からパタンダルバール広場へ続く、風情のある細い道。

一見するとそれほど被害は見受けられないが、ひびが入ったり、傾きそうになったりしている家々を目にする。

歪んだ家屋を支えるため、通りのあちこちに渡された木のつっかえ棒。


地震前からも、旧市街の古い建物をこうやって支える光景は時々みられたが、地震後その数は増えた。
 


 
パタン市内マンガルバザール。
地震当日から今日まで、この場所に止まったままだというラトマチェンドラナートの山車の手前にある家も、つっかえ棒で支えられていた。
 
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地震後に訪れた寺院等の様子について、次のブログでも発信しています。
 




2015年5月2日土曜日

癒しのジャカランダ

 
 
 
毎年4月半ば過ぎから咲き始めるジャカランダの花。
 
今年は、4月25日に起きた地震とその後の多忙さで気にとめる余裕がなかった。
 
 
 
 
しかし今日、トゥンディケル広場で医療活動を始める自衛隊の取材に同行した時のこと。
 
隣のクラマンツとを囲むようにして咲いている、ちょうど今が満開中の、紫の色のジャカランダが美しすぎて、しばし見とれ、癒された。
 
最初の写真中央に見える白いテントの下で、医療活動が行われていた。

2015年5月1日金曜日

ネパール大地震7日目

毎日早朝から夜遅くまで、報道クルーの方に同行し、カトマンズ市内各地移動しています。

建物崩壊現場では胸を痛めやるせない気持ちになりますが、ネパール庶民たちの前向きな行動を目にするようになり、この国は大丈夫、という確信も感じています。

旅行者エリアのタメル地区も、震災翌日はほぼすべての店がシャッターを下ろし、人通りも少なく、異常さを実感しましたが、5月1日現在半分ぐらいの店が開き、活気を取り戻しています。

街でも、路上で野菜を売る商売人、自転車の果物売りも見かけるようになり、街を走る車の量も通常通りに戻っています。

毎日目にする各地での様子は、時間が許す限りリアルタイムでツイッターに画像つきで更新していますが、今日は、ネパールの人たちががんばっている姿、タフな姿を抜粋して掲載してみたいと思います。


4月30日に、約120時間以上ぶりに二人の生存者が発見されたカトマンズ市内ゴンガブ地区。捜索活動が続く中、顔にネパール国旗のペイントをし、一緒に頑張ろうと紙を掲げる若者たち。(本日撮影)
 
 
 
地震直後から避難民が集まっている、市内中心部にあるトゥンディケル広場。ヤギと一緒に避難してきた女性が、広場の雑草を餌代わりに山羊に食べさせている光景。(4月27日:地震発生3日目早朝撮影)


朝のダルバール広場内ハヌマンドカ。この向かいにあったクリシュナマンディルは全壊。周辺はがれきの山。そんな中にも、震災前と変わらず、ハトの餌売りが現れる。ハトに餌をやるとご利益があると信じられているのだ。(4月28日:地震発生4日目早朝撮影)



瓦礫撤去のためネパール各地からカトマンズ市内ダルバール広場に集まったボランティア。
 
老若男女、チベット仏教の赤い衣装を着た僧たちも。きれいに列を作り、バケツリレー方式で瓦礫を次の人に渡し、最後の人が整然と地面に並べていく。
 
この日夕方、コイララ首相が視察にあらわれると、ボランティアたちが首相を取り囲み、支援が足りない、と、帰れコールを叫び出す一面も。そのうち、個々の叫び声は「カーム ロキョ!」(作業の邪魔しに何で来た!)いう一つのコールに代わり、首相は退散する羽目に。
 
熱くなっていたボランティアたちだが、首相が去るとすぐ、口々に「中断させられたけど、さあ早くまた作業にとりかかろう!」と、乱れた列をきれいに元に戻し、作業再開するという、感動的な行動も。(4月28日:地震発生4日目午後撮影)
 
 
 半分以上の人が帰宅したようでテントの数は減ったトゥンディケル広場で、まだ残っている避難民たちに食料を配る、大手バートバテニスーパーマーケットの従業員たち。
 
また、この日別の場所では、タクシーのトランクいっぱいにチウラ(干し米)を積み、分けている個人ボランティアの姿も。(5月1日:地震発生7日目夕方撮影)
 
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この様な前向きな光景が見られる一方、地方ではまだ詳細すらわかっていない深刻な状況と行方不明者も取り残されているとのことで、一刻も早い確認と救援を祈っています。