4月25日と5月12日のM7越えの地震の影響で、ドラカ郡、シンドゥパルチョウク郡、ラスワ郡、オカルドゥンガ郡にある、スタッフやガイドたちの実家が崩壊した。
ただ、不幸中の幸いで、私がきく限り、「村の家屋のほとんどが崩壊し住めない状況となっているけど、亡くなった人はいない。軽いケガ人が出た程度」というところが多かった。先日訪れた、ドラカ郡とシンドゥパルチョウク郡の村も然り。
これは、地震発生がいずれも昼頃で、畑仕事や洗濯など、屋外に出ている人たちが多い時間帯だったのが関係している。もし地震が夜中に発生いていたら、崩壊した家屋に寝ていたほとんどの村人が死傷していただろう、と、皆が皆、口をそろえて言う。
人的被害が少なくて本当に良かった、と思っていたのだが、現実はそう甘くはなかった。
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4月25日の地震の震源地ゴルカ郡。この郡に実家のあるガイドに確認したところ、一部亀裂が入ったが家に住めなくなるほどの被害はない、と聞いてほっとしていた。しかし、彼の妻の実家があるラスワ郡の村がひどいことになっていると、のちに知ることになる。
(私たち、年に何度か家族も含めた集まりを実施していて、スタッフやガイドたちの妻や夫、他、家族ともよく顔を合わせており、他人事とは思えないのだ)
妻の実家は、カトマンズからランタントレッキングの際の玄関口となるシャブルベシへ行く途中の、山奥の村にある。村までは車道は引かれておらず、車道がある道から現地の人の足で、急な斜面を1時間ぐらい(というと私の足なら2時間以上はかかるだろう)歩いた場所なのだと。
公的データではないが、ガイドの義父(妻の父)曰く、35戸あった村のすべての家が崩壊。また、村人24人が死亡。うち、親戚だけでも6名が死傷したと(3名が死亡、3名が重傷)。
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本日サンガの脊髄損傷リハビリセンターを訪れたのは、重傷を負ったガイドの義妹(サパナ19歳)の見舞いのため。
4月25日11:56、サパナが家の近くの水場で洗濯をしていたところに地震発生。室内に親戚の7歳の女児が一人でいたことを思い出し、石造りの家の中に入り連れ出そうとしたところで、家が崩壊し始める。
とっさに四つん這いになり女児をかばうも、上から石材が落ちてきて、腰に直撃。女児共に半分瓦礫に埋もれたが、揺れが収まった後に村人に助けてもらい、その日は村のヘルスポスト(無人診療所)へ。しかしヘルスポストも崩れ、全てが埋まっている状態で治療はできず。
村を出る道も落石でふさがれ、移動も困難な状況。手当することもできず、そのまま3日間は村にいるしかなかったそうだ。
4日目に軍のヘリが偵察に来たので親族がカトマンズへ搬送してほしいと頼み込むも、はじめは断られる。しかし、とにかく病人を見てほしい、と状態を見せたころ、事の深刻さを分かってもらえ、カトマンズに搬送。ティーチングホスピタルで緊急手術を受け、様態が安定してから、ここ、サンガのリハビリセンターに転院してきた、というのが今までの流れとのこと。
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サパナがかばった女児は頭にケガをするも軽傷ですんだそうだが、別の場所にいた女児の母親は死亡。
ちょうどこの日、村ではアマ・サムハ(母親たちの集まり)が実施されていて、この会合に参加していた女性6名、同じ家屋の下敷きになり亡くなったのだと。その中に女児の母親もいたそうだ。
他にも、サパナと一緒にヘリで搬送された重傷者には火傷を負った16歳のガイドの義妹、18歳の親戚の娘もいた。
16歳の義妹は、地震発生時、屋内でかまどに火をかけていて、崩壊した家の下敷きになり下半身と腕などを広い範囲で火傷。村人に瓦礫の下から助け出された時には、履いていたつっかけが熱で溶け足にくっつき、足の指が3本、焼け落ちたのかなくなっていたと。
18歳の娘も瓦礫の下敷きになり脊椎損傷。
壮絶な体験にいたたまれなくなり言葉を失った。
なお二人はカトマンズの病院を退院し、現在は市内の親戚のアパートでリハビリをしつつ自宅療養中とのことだ。
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サンガのリハビリセンターは、本来約50床しかないそうだが、地震の影響で入院患者は倍以上に増えているとのこと。図書スペースや、ロビー、庭の軒下、仮設テントの中にもベッドが並べられていて、重傷者は屋内、重傷ながらも比較的経過のよい人は仮設テントの中に振り分けられている。サパナのベッドは屋内にある。
医師の診断によれば、サパナは、リハビリを続けても自力で歩けるようになる可能性はゼロ、とのことだが、まだ本人には告げていないという。
サパナ自身も、下半身不随になったとは思っておらず、毎日、いつ歩けるようになるのかしら?と付き添っている姉(ガイドの妻)に聞いているそうだ。
村の被害も大きく、親族もたくさん死傷、すべてを見てまわらなくてはならず、村とカトマンズ、サンガを行ったり来たりしている義父。サパナは実弟の子だが、実弟が父親の役目を果たさなかったため、幼いころから自分の娘同然に育ててきたのだと。
「この子の名前サパナ(夢)のように、すべてがサパナならよかったのに」と何度も言っていたのが、つらかった。
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