熱心なヒンドゥ教徒である男性スタッフの息子(9歳)の、宗教的儀式が近づいている。
その儀式は、ブラタバンダ(bratabandha)という。ヒンドゥ教ブラーマン(ネパール語ではバフン)の家庭に生まれた男児が、この儀式を行うことによって、初めて、ヒンドゥ教徒として扱われるようになる、という、重要な儀式である。
この儀式の準備に追われている中、主役の息子が病気になってしまった。風邪をこじらせ自宅療養中。
儀式の準備に追われている中で、主役がこんなことになってしまい、当日は滞りなく儀式を終えられるのか、と、主催者である家族はやきもきしている様子。
しかし、この儀式だけは親の義務として、必ず無事に終わらせなければいけないのだと、彼はいつになく真剣に語ってくれた。
なぜなら、この儀式を行うことによって、息子をヒンドゥ教徒入りさせないと、自分が大変なことになる、というのだ。
どういうことかというと、彼(スタッフ)が死んだ後、自分のために葬式を執り行ってくれるのは、息子。しかし、この息子が、『ブラタバンダ』の儀式を済ませていないと、宗教的儀式を執り行うことができない。つまり、自分が死んでしまった時、自分の一番近しい身内の中で、葬式を行ってくれる人がいなくなってしまう。
葬式や法事の際にはいろいろなしきたりがある中で、『ピンダ』と呼ばれるご飯を丸めたものを、息子が亡き父に捧げる、という儀式がある。
しかし、息子がヒンドゥ教徒の仲間入りをしていないと、ボクが死んでも、ピンダさえも息子に捧げてもらえないんだよ、と、真顔で言うのだ。
それを聞いていて、あることを考えてしまった。
日本人が食べる『おにぎり』。これは、『ピンダ』に似ている。ネパール人から見ると、ニホンジンは、葬式や法事の小道具として重要な『ピンダ』に似たものを食べるなんて、と、怪訝な顔をする人もいるが、彼は、日本人との付き合いも長く、おにぎりを知っているし、食べたりもする。
で、どうしてもこらえきれずに、不謹慎ながら、ひとりで噴出しつつ、言ってしまったのだ。
息子がピンダを捧げられないような事態になったら、私がおにぎり捧げてあげようか?しかも、鰹節(マチャ)入りで。(マチャは厳密にはネパール語で魚を意味する。彼らは一応宗教上ベジタリアンでなくてはいけないので、魚も本来は口にしてはいけない)
すると、さすがにこのジョークはまずかったようで、真顔で言われてしまった。
いや、それはやっぱりまずい。
自分の死後、ピンダではなくおにぎりを、しかも、ヒンドゥ教徒でもなんでもない女に捧げられるシーンを想像したのか、本気で青ざめていた。
軽い冗談のつもりだったのだが、少々度が過ぎたようだ。
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