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ラベル ネパール大地震 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
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2021年4月29日木曜日

ネパール地震の記録(動画)

6年前、2015年4月25日ネパール時間午前11:56(日本時間15:11)に発生したゴルカ震源の大地震。

死者約9000人と大きな被害が出ました。

発生翌日にネパール入りされた、日本の某テレビ局バンコク支局の記者さんの取材に同行し、各地でいろいろな光景を目にしました。

被害を目の当たりにしてどうしても写真に撮ることができなかった光景も多々ありますが、残っている画像を、記録として動画(スライドショー)にしました。

コロナ禍によるロックダウン的な状況に戻ってしまった今、当時の、非日常の中で見かけたささいな日常や団結に勇気づけられたことを思い出しつつ。

よろしければご覧ください。

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震災1日目・2015年4月25日午前11:56発生




震災2~3日目・2015年4月26~27日




震災4~5日目・2015年4月28~29日

2020年9月27日日曜日

ダラハラ塔修復中


カトマンズの旧中央郵便局近くにあった高さ約52mのダラハラ塔。

レンガを積んでセメントで固めただけだったため、2015年4月の大地震で倒壊、死傷者を出した。

しばらくは竹を斜めに割ったような倒壊跡が見られていたが、その後復旧工事が進められ、少しずつ高くなってきている。

2019年12月13日 修復中のダラハラ塔

2020年3月23日 ロックダウン開始前日のダラハラ塔

2020年9月26日 少し高くなったダラハラ塔

ところで、2015年4月25日、ダラハラが倒壊したニュースは地震直後に知人からの電話で知った。その2時間後に近くを通り生々しい現場に呆然とした。

その後も日テレ記者さんの取材に同行し何度も近くまで訪れ、そのたびにカメラを向けたがどうしても撮ることができなかった。

なので自分で撮った写真は一枚も残っていないが、現場で見たあの光景、感じたにおいは、忘れることはないと思う。

2020年4月24日金曜日

ロックダウン32日目(4/24)バイサクバーラガテ、大地震より5年

本日ネパール公暦ビクラム暦一番目の月12日(バイサク・バーラガテ、という)。

2015年の大地震からちょうど5年。

え、地震発生日は今日じゃなくて明日4月25日でしょ?と思われた方、はい、西暦だとそう。でも現地人にとっては4月25日ではなくバイサク・バーラガテの今日として強く記憶に刻まれている。

西暦とビクラム暦では年によって1日程度日付にズレが生じることがあり、西暦4月25日がビクラム暦1月12日ではなくなる年があるのだ。

地震1年目の2016年にも、海外メディアとネパール人が認識する地震発生日が1日ずれ、「あの地震から今日で1年がたちました」という海外報道との間に温度差が発生していた。

とはいえ、明日4月25日は5年前と同じ土曜日に当たっており、4月25日もバイサクバーラガテも、どちらも忘れられない日。

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さて、ネパールの定番おやつ、困ったときのポップコーン。炒ればすぐに食べられる、早くて便利なお助けおやつ。

定番の塩味はもちろん、バター醤油、キャラメル、カレー、マサラ、塩コショウなど、気分によって気軽に味変も楽しめる。

乾燥させた粒には、はじけるものとそうでないものがあり、はじける方をネ語で「花咲く(फ‌ूल उठ्ने)粒」と表現するのが詩的。

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今日のカトマンズ夕景。

4月10日以降、雲や霞の影響で、西の丘・ナガルジュンに沈む夕日が見えない日が続いていたので久しぶり。この2週間でずいぶん西に移動したなあ。

去年に引き続き、ダイヤモンド富士ならぬ、ダイヤモンドナガルジュンを期待しているところ。

2018年9月7日金曜日

ネパール地震後3年半、カトマンズダルバール広場内クリシュナ寺院


八角形の形が特徴的な、カトマンズダルバール広場内クリシュナ寺院。

2015年4月25日に発生したネパール大地震で全壊、裏の茶屋で2名が瓦礫の下敷きになり、日本から派遣された自衛隊の捜索エリアにもなっていた。


取材クルーに同行し私も現場にいたため、当時のことは忘れられない。

写真のような光景もそうだし、あちこちで古いレンガが崩れたためか、湿ったかび臭いにおいが漂っていたことなども。

ここがもうすぐ完成しようとしている。

2016年11月8日火曜日

ネパール地震1年半後のランタン村


2015年4月のネパール大地震で地滑り・雪崩により村全体が消滅した、ランタントレッキングルート上にある「ランタン村」。

多くの方たちが犠牲になった。

冒頭の写真は、ランタン村跡地に建てられた、犠牲者の名前が刻まれた慰霊碑。地元住人とアーミー合わせて200人近い氏名が刻まれているそうだが、このほかにも、ロッジで住み込みで働いていた他村の人、季節労働者、外国人トレッカーやガイド・ポーターなども合わせると、犠牲者数は膨大なものになる。



ロッジ跡地には、目印のために建てられた看板も目につくとのこと。

将来的にはメモリアルパーク建設の予定もあるらしい。

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次の写真は、ランタン村を見渡せる場所から同じ構図で撮った、地震後と前の写真。

≪2016年11月ガイドPrabesh Gurung撮影≫


≪2006年6月撮影≫


10年前に私が訪れたときに撮った写真を探してみたら、偶然にも、今回ガイドが撮ってきてくれたものと同じ構図のものが見つかった。

ガイドが撮ってきた写真に写る白い部分が、昨年の地震による雪崩と地滑りの影響を受けた場所。

解像度が悪くわかりにくいが、10年前の写真には、同じ場所にロッジがたくさん写っている。

あらためて、自然の恐ろしさと、被害の大きさを実感する。

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今は、もともとあったランタン村のはずれに新しい集落ができ、ロッジも何軒も再建されているとのこと。トレッキングも問題なくできており、地震後しばらくは減っていたトレッカーも増え、活気も戻ってきているそうだ。

※写真上から3枚は11月初旬ガイドが撮影したもの。

2016年5月29日日曜日

タメルのドゥンゲダラの、日本人との縁


昨年の地震後、当ブログで何度か話題にしてきたタメルの共同水場ドゥンゲダラ・正式名ガー・ヒティ(गाःहिटी)。

今まで「ドゥンゲダラ」という一般名称のみ書いてきたが、ネワール語の「ガーヒティ」というのがここの正式名称。

過去の記事:
2015年6月3日 タメルで唯一被害の大きかった場所
2015年9月3日 タメルのドゥンゲダラ再び
2016年4月25日 修復中のドゥンゲダラ

去る3月より始められた修復工事が、近々終わろうとしている。




タメルの文化遺産として地元の人たちが誇るガーヒティ。

周辺住人にとっては貴重な水場であり、地震後、修復の話が何度も出ていたが、資金繰りが難しく、なかなか実現には至っていなかった。

しかし昨年末、とある日本人の方たちから寄付が寄せられたのがきっかけで、タメルのコミュニティや地元住民たちが沸き立ち、真剣に市役所に掛け合い、政府からも大口の資金援助をしてもらえるようこぎつけ、本格的な修復作業が始まった、という経緯がある。

その時点では(おそらく今も?)、外国人からの寄付の申し出は初めてだったという。

実は、世話役の日本人の方が、当ブログの記事を偶然目にし、気にかけてくださったのがきっかけだった、という逸話も。

私が発信している日々の何気ないネパールの日常と、小さな草の根の力が、こうやって地震後の修復へのきっかけを作り、それがいま、目に見える形で完成しようとしていることを、とても嬉しく思っている。




ところでこのドゥンゲダラ、地元の人たち曰く、およそ1000年ほど前に造られた歴史あるものだそうだが、地震で被害に遭うまでずっと、水場として使えていたわけではなかった。

長い年月の間には、水が出なくなってしまったり、水はけが悪くなったり、というトラブルもあって、過去何度も手を加え、時には長い間使えなくなってしまった時期なども乗り越え、今に至るという。

最近では、25年以上前に発生した落雷の影響で、10年以上水場としては利用できなかった時代があったのだそうだ。

その後、日本大使館からの資金援助があり、修復工事が行われ、2001年より再び使うことができるようになった。

そのことを証明する石碑が、ドゥンゲダラの中央に埋められている。

地元のコミュニティの方たち、「前回も日本人が修復に関わってくれ、地震後も、修復のきっかけを作ってくれたのが日本人であったことに、運命を感じる」と、喜んでくれた。

実は落雷のことと、その後の修復に日本が関わっていたことは私も先日知ったばかり。今まで以上にこのドゥンゲダラに愛着を感じ、経過を見守っていきたいと、強く思った次第。


ところで、もうすぐほぼ修復完成ではあるが、実はまだ3点、大きな問題を抱えている。

まず初めに、ドゥンゲダラという名前の由来である、石の(ドゥンゲ)蛇口(ダラ)を、どうやって再現するか、ということ。石に彫刻が施された大きな蛇口が折れてしまい、今も、水場の横に、写真のように放置されている状態。(しかも、こんな貴重なものの上に、無造作に洗濯物まで干されている!)

新たに同じものを造るには費用面でも技術面でも厳しいため、壊れたこの蛇口を、うまくくっつけて利用できるようにしたい、とのこと。

そしてあと2点は、水場の横にある歩道の修復と、水場と歩道の間に柵を作るための資金が不足している、という点。

これら3点については、資金が集まるまで完成せず、しばらくは保留となる可能性もあるが、「水場」として再び利用ができるようになったことだけでも、皆、本当に喜んでいる。

地震から1年以上経った今も、未だ修復すら始まっていない場所も多い中、庶民の熱い想いのもと、ガーヒティのように修復が実現した、というケースは、被災した他の地域や施設にも、良い刺激を与えているのだそうだ。

(写真はいずれも5月26日に撮影したもの)

2016年4月25日月曜日

修復中のドゥンゲダラ(共同水場)


当ブログでも何度も話題にしてきたタメルのドゥンゲダラ(共同水場)。

昨年の大地震で、向かいのホテルが崩壊し、この場に倒れ込み大きな被害を受けた。

前回の記事(2015年9月3日付)
しばらくは瓦礫が山積みになり、水場の機能を果たせていなかったのだが、一部瓦礫がよけられ、かろうじて水を汲めるようになったのが昨年夏ごろ。

水はけが悪く異臭が漂う中、瓦礫をよけるように、近隣の人が水を汲んだり洗濯をしたりする姿を見かけていた。

その後もなかなか修復工事は始まらなかったのだが、先月3月12日に、ついに着工。


≪2016年3月16日・修復工事着工から5日目に撮影≫




≪2016年4月25日撮影≫

冒頭の写真も本日撮影したもの。

瓦礫がかなり撤去され、周囲の塀も整備され始めている。

この工事着工のきっかけとなったのが、昨年末修復費用に充ててほしいと寄せられた、とある日本人の方々から寄付だった、と関係者の方から聞いている。

あの日から一年経ってしまったが、復旧に向け毎日作業が進められている様子に嬉しくなる。

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ビクラム暦(1月12日)で考える、地震1年の日に当たっていた昨日。

世界遺産、寺院、交差点、地元の人しか通らないような路地裏。あの日を思い出し、死者を弔うためあちこちで灯されていた灯明。

ここドゥンゲダラのそれはひっそりとしていて、他の会場のような派手さはなかったけれど、だからこそ、地元の人たちの真の想いが込められているように見えた。


≪2016年4月24日撮影≫

2016年4月24日日曜日

ネパール大地震から1年


本日、ビクラム暦1月12日。昨年の大地震から今日で1年。

2015年4月25日に起きた地震なので、海外のメディアや支援団体の多くが「4月25日」が1年、としてとらえているが、実際に地震を体験したネパール人たちにとっての1年は、ビクラム暦で巡ってくる。

節目となる今日、各地で様々な追悼イベントが行われていた。

地元のごく親しい人たちが集まり、灯明を灯し死者の霊を追悼するものから、事前にメディアで告知されていた大がかりな追悼ライブのようなものまで。

写真は、本日スワヤンブナート入口での様子。僧や地元住民たちが静かにろうそくに火をつけ、祈っていた。



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前日にはバサンタプルにて風船を飛ばす催しも行われていた。地震から2か月の時にも実施されていて、今回も同メディア主催のもの。


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ところで、この一年、今のネパールを自分の目で見ておかないと、という想いにかられ、時間の許す限り、あちこち出かけてきた。

その際、被災地の村でよく耳にしたのが「ナヤ・ネパール(新しいネパール)」という言葉。

昨年9月、7年越しに新憲法が公布された際によく使われた言葉でもあるのだが、地震後、新たな環境の中で日常を取り戻していった様子を「これぞナヤ・ネパール(新しいネパール)だね!」と表現する村の人がけっこういたのだ。

まだまだ復興にも程遠く、心身共に傷を負い癒えていない人も多いのが実情だが、明日から始まる一年が希望に満ちた「ナヤネパール」になることを願ってやまない。

2016年4月22日金曜日

村訪問2:カビタの実家(ドラカ郡シンガティ近く)

3月末のラスワ郡トゥロガウン村訪問に続き、4月初旬に行ってきたのは、ドラカ郡バル村。ここは、いつもオフィスでおいしい賄い食を作ってくれる、勤続6年目になる女性スタッフの実家。(彼女の嫁ぎ先の村には、震災1か月後に訪問している

昨年4月25日の本震での被害も大きかったようだが、さらなる打撃を与えたのが、5月12日発生の最大余震(M7.3)。村からも近い場所が震源地で、周辺で多数土砂崩れが起きたそうだ。

村の石造りの家はすべて崩壊。不幸中の幸いで、村にいて家屋の下敷きになって亡くなった人はいなかったそうだが、周辺の道を歩いていて、土砂の下敷きになり亡くなった方は何名かいると。

村人もよく通る、シンガティ村より先の最寄りの車道では、走行中のバスが土砂崩れに巻き込まれた。バスの中からは子供の泣き声がずっと聞こえていたが、余震も続き、土砂が常に崩れ落ちてくる状況で救出作業もままならず、助けたくても助けられない状態だったらしい。3日目にその声も聞こえなくなった、と、地元の人が淡々と語ってくれた。

実際に近くを通ってみて、確かに、間近に迫る、風が吹いただけで土砂が落ちてきそうな山肌に恐怖を感じる。



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村は、ガウリシャンカール自然保護区域内にある。道中、山の合間にうっすら白い嶺が見えていた。



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シンガティ村からメインの道を脇に入り、3つほどの小さな集落を通り過ぎて到着した今回の訪問地。

途中までは通じていた携帯(ネパールテレコム、Ncellとも)の電波も、まるっきり入らない。今や、トレッキングルートでも携帯は通じ、開けた山の上にある村などでは、データ通信でのネット接続もサクサク可能な場所も多い中、久々に僻地感を実感する。

通過したどの集落も崖と川の間に存在する狭い土地にあり、大きな余震がきて土砂崩れが起きたら逃げ場がないような危険な環境の中、ここの土地は他の集落に比べるとやや開けており、同行している他のスタッフたちが安堵の表情を見せたのもつかの間、、、




新たに家を建てるには敷地が足りず、川に突き出し宙に浮いているような形で作らた小さな小屋が並ぶのを見て、一同唖然とする。




松の木で支えられているだけの土台。風が吹くだけでガタピシ言う。薄い木の板を渡しただけの床は抜けないだろうか。




家の壁も、トタンではなく、ふぞろいな木材と、竹で編んだ手作りのすだれのようなものを貼り付けただけの、つぎはぎだらけのもの。隙間風がモロ入ってくる、というより、屋根がある以外は、屋外とあまり変わらない環境。



地震後、ほとんどの被災村で、村民自らの手で建てられたトタンの仮設小屋。

「仮の住まい」のはずが、「仮」の域を超え、けっこうしっかり作ってあり、「真の住居」として扱われている家も多い。

しかし、ここの村のはどれも本当に質素すぎて言葉を失う。これで冬を越したというから、さぞかし寒かっただろう。

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地震前は12軒ほどの民家があっただけだったが、地震後、もっと山深くから避難してきた人たちもここに仮設の居を構え、民家数は倍ぐらいに増えたそうだ。

賄いスタッフ、昨秋地震後初めて帰省した際には、家々の配置も変わっており、自分の出身村ながら、初めての場所に来たような混乱を感じたと言っていた。

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農作業の閑散期である4月初旬は、村人総出でよく川魚を捕るそう。



岩の下に隠れる魚を中腰の前かがみになり必死に探す様子に、日本での潮干狩り光景が重なり、懐かしい気分に。



名前のない小魚がいろいろ捕れる中、メインは「アサラ」と呼ばれるマス(?)の一種。



唐揚げにしてご馳走してくれた。

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夕飯に出してくれたご馳走。手作業で精米した五分づきっぽいご飯に、石臼で挽いたダルのスープ、畑で取れたぜんまいを炒めたもの、自生しているミントのアチャール、目の前でしめてくれた鶏のカレー。他、水牛のミルクに自家製ヨーグルト。塩や調味料以外はすべて村で採れるもの。

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電気は引かれていないが、豊かな水資源があるため、村人たちが資金を出し合い、川の流れを利用した小さな水力発電所を作っている。このおかげで、日没~翌朝未明までは、電気を使うことができる。日照中は使えないが。

水道はないけれど、村の何か所かに、川の水を長いホースで引いた水場があり、常に水があふれている。地震後も枯れなかったし、目の前は川だから、水には困らなかったそうだ。

調理はいうまでもなく薪を使って。


地震直後の混乱の中でも、壊れた家から、鍋と、備蓄していた穀物を取り出し、畑から野菜を引っこ抜いてきて、薪を集め適当な場所にかまどを作ればよいだけだったから、煮炊きには困らなかったそうだ。

もともとインフラなど整っておらず、自給自足が当たり前。周辺、しばらくは土砂崩れで道も閉ざされ、軍のヘリによる支援物資投下などもあったそうだが、村人たちは、大変な状況下でも、案外たくましく過ごしていたことを実感。



村の男性の足。靴を履くことはほとんどなく、普段は裸足かぞうり。写真を撮った時は緊張で指が縮こまってしまったが、仕事をしているときは、開ききった自由な指が地面をガシッとつかみ、自然と共に生きている力強さがにじみ出ていた。

2016年4月10日日曜日

村訪問1:サパナの一時帰省(ラスワ郡トゥロガウン村)

昨年4月の地震後、被災地となったスタッフたちの村をいくつか訪問してきた中で、行く機会を逃していた村二つ。

ラスワ郡トゥロガウン村と、ドラカ郡バル村。

地震直後は近くまで行く車道が土砂崩れで封鎖。その後も余震のため通行が危険で、落ち着いてきたころには雨期突入で二次災害の恐れあり。乾季に入り、いよいよ、と思ったところで燃料危機による燃料高騰。年明けて諸々落ち着き、地震から1年が経とうとする今、立て続けに二村訪問する機会がやってきた。

まずは3月末に訪問してきた、ラスワ郡トゥロガウン村のことを。

ここは、当ブログでも何度か話題にしたことのある、ガイドの義妹サパナの実家。


カトマンズ北、ランタントレッキングへ行く際にも通るトリスリからさらに先へ進み、途中で道をそれ、800mほど山を登り、急斜面に広がる、標高1400mほどの、住人のほとんどがグルン族の村。

道中、地震で家を失い、チベット国境付近から逃げてきた人たちが暮らす、トタン小屋が並ぶ避難キャンプを通り過ぎる。



村まではジープで行ける予定だったが、スタック&スリップを繰り返し、結局歩いて移動したことについては、先日話題にした通り。
http://dailynepal.blogspot.com/2016/03/blog-post_28.html

途中で下車し、荷物やサパナは、村から迎えに来てくれた助っ人たちに運んでもらった。


日没後にやっとサパナの実家到着。といっても、本当の実家は全壊し、家があった場所には石材の山ができていて、彼女が約1年ぶりに到着したのは、地震前は家畜小屋があったという敷地に建てられた、トタンの仮設小屋。実家でありながらも、彼女にとっては初めての場所。

次から次へとやってくる村人との再会を喜び、親戚の子供をだっこしては「ぼうや、大きくなったねえ」と頬ずりをしたり、「おばあちゃん、腰は大丈夫?」と年輩者をいたわったり。

地震直後、彼女がとっさにかばってあげ、頭にケガをしただけで済んだという女の子も寄ってきて、「頭はもういたくないよね?」と髪を分けて傷口をみてあげたり。(この女の子のお母さんは、家の下敷きになり亡くなった)

カトマンズでは(私の前では)口数も少なく、恥ずかしそうに、小さな声で「はい」か「いいえ」しか口にする様子しか見せてくれなかった彼女だが、急に生き生きとし、笑顔になった様子に、思わず眼がしらが熱くなってしまう。

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翌朝。

担いで持ってきてもらった、ネパール製の車椅子を出してみる。

関連記事:

仮設小屋前に適度な平地があり、ここでなら使えそうだ。



その後村を散策に。ここも例にもれず、村のすべての家が崩壊。今もあちこちに、壊れた家の残骸である石がたくさん残されている。



壊れたままの建物もあちらこちらに。その一つが、地震直後、石材に埋まったサパナを親戚たちが掘り起こしてくれ、運ばれたという村のヘルスポスト。彼女から聞いた地震直後の壮絶な体験を思い出し、胸が締め付けられる。



すべての家がトタンの仮設小屋。高台から見ると、その様子が一目瞭然。



これは学校。


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いまだあちこちに地震の傷跡が残る環境だが、微笑ましくなる光景も多々。

ロキシー造りをするおばちゃんとか。


水牛の背中を利用して、干してある枯草を食べようと必死で、ちょっと滑稽なヤギとか。



宿泊用に持っていたテントは、子どもたちの基地に早変わり。楽しいよね。



地震からもうすぐ1年。いろいろ変わってしまったこともあったけれど、新しい日常の中で、みな、たくましく生きていた。
サパナと親戚の人々。サパナの後ろにいる黒い服を着た女の子も、地震直後、かまどのある部屋で家の石材に埋もれ、首から下をかなり広い範囲で火傷。足の指3本は焼け落ちてしまった。もう痛みはないが、火傷の痕がかゆいと言っていた。

右斜め上に半分だけ顔が出ている女の子も、脊椎損傷し、まっすぐは歩けなくなってしまった。

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ところで、カトマンズを発つ際、サパナの心の支えになってくれている、車いす生活を送りながらも活躍している女性から、「絶対にカトマンズに戻ってくるんだよ」と言われていた。「村は居心地がいいけれど、そこで落ち着いたらダメ」と。

サパナ自身、村でずっと生活し続けたい気持ちと葛藤しながらも、一歩前に進みだしたとも聞いている。

それは、昨年落ちてしまったSLC試験(若者の進学・就職など将来を左右する重要な試験)を再受験したということ。

サパナのSLC試験にまつわる話題は、またの機会にでも。

2016年3月25日金曜日

日常の中のつっかえ棒


本日3月25日(パッチス・タリク)、ネパールのビクラム暦(2072年)だと12月12日(バーラ・ガテ)。

昨年の大地震も、西暦4月25日(パッチス・タリク)でビクラム暦1月12日(バーラ・ガテ)にあたっていた。西暦とビクラム暦の日付は微妙にずれるから、西暦25日(パッチス・タリク)が必ずしもビ暦12日(バーラ・ガテ)にあたるとは限らない。

ネパール国外では毎月25日になると「地震から○ヶ月」と報道されていたが、ネパール人にとっては、西暦25日ではなくビ暦12日が「地震から○ヶ月」にあたる日だから、認識の違いに常にギャップを感じていた。

しかし今日、地震後初めて、パッチス・タリク(西暦の25日)とバーラ・ガテ(ビ暦の12日)の組み合わせとなった。

正真正銘、西暦でもビ暦でも、大地震から11ヶ月経った今日。

カトマンズダルバール広場を訪れたついでに、バサンタプル裏の細い路地にも入ってみる。

路地裏に入るのは地震直後ぶり。あの時とどれだけ変わったのだろう、と、狭い道を進んだのだが、レンガ造りのゆがんだ家や瓦礫がそのまま残っているところもあって、当時とあまり変わらない様子に、良くも悪くも意外な感じ。

そもそも、地震直後にはたくさんのつっかえ棒はなかったと記憶しているが。

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上の写真の撮影地点から少し後ろに下がってみると、つっかえ棒と共に生活する人たちの様子がよくわかる。


八百屋では、つっかえ棒をよけるように野菜が並べられていたり、地元向け飲食店の入口につっかえ棒が充てられていたり。

カトマンズ旧市街に限らず、パタン、バクタプルなどでも同じ。

地震後、日常の中につっかえ棒があるのが当たり前の光景となってしまった地域が、たくさんある。

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カトマンズダルバール広場内本格的な復旧工事もまだ始まっていない。瓦礫こそきれいに片づけられたものの建物崩壊具合は地震直後に見た光景のまま。



参考記事:ネパール地震後のカトマンドゥダルバール広場
http://tokuhain.arukikata.co.jp/kathmandu/2015/05/post_173.html