昨年4月の地震後、被災地となったスタッフたちの村をいくつか訪問してきた中で、行く機会を逃していた村二つ。
ラスワ郡トゥロガウン村と、ドラカ郡バル村。
地震直後は近くまで行く車道が土砂崩れで封鎖。その後も余震のため通行が危険で、落ち着いてきたころには雨期突入で二次災害の恐れあり。乾季に入り、いよいよ、と思ったところで燃料危機による燃料高騰。年明けて諸々落ち着き、地震から1年が経とうとする今、立て続けに二村訪問する機会がやってきた。
まずは3月末に訪問してきた、ラスワ郡トゥロガウン村のことを。
ここは、当ブログでも何度か話題にしたことのある、ガイドの義妹サパナの実家。
カトマンズ北、ランタントレッキングへ行く際にも通るトリスリからさらに先へ進み、途中で道をそれ、800mほど山を登り、急斜面に広がる、標高1400mほどの、住人のほとんどがグルン族の村。
道中、地震で家を失い、チベット国境付近から逃げてきた人たちが暮らす、トタン小屋が並ぶ避難キャンプを通り過ぎる。
途中で下車し、荷物やサパナは、村から迎えに来てくれた助っ人たちに運んでもらった。
日没後にやっとサパナの実家到着。といっても、本当の実家は全壊し、家があった場所には石材の山ができていて、彼女が約1年ぶりに到着したのは、地震前は家畜小屋があったという敷地に建てられた、トタンの仮設小屋。実家でありながらも、彼女にとっては初めての場所。
次から次へとやってくる村人との再会を喜び、親戚の子供をだっこしては「ぼうや、大きくなったねえ」と頬ずりをしたり、「おばあちゃん、腰は大丈夫?」と年輩者をいたわったり。
地震直後、彼女がとっさにかばってあげ、頭にケガをしただけで済んだという女の子も寄ってきて、「頭はもういたくないよね?」と髪を分けて傷口をみてあげたり。(この女の子のお母さんは、家の下敷きになり亡くなった)
カトマンズでは(私の前では)口数も少なく、恥ずかしそうに、小さな声で「はい」か「いいえ」しか口にする様子しか見せてくれなかった彼女だが、急に生き生きとし、笑顔になった様子に、思わず眼がしらが熱くなってしまう。
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翌朝。
担いで持ってきてもらった、ネパール製の車椅子を出してみる。
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仮設小屋前に適度な平地があり、ここでなら使えそうだ。
その後村を散策に。ここも例にもれず、村のすべての家が崩壊。今もあちこちに、壊れた家の残骸である石がたくさん残されている。
壊れたままの建物もあちらこちらに。その一つが、地震直後、石材に埋まったサパナを親戚たちが掘り起こしてくれ、運ばれたという村のヘルスポスト。彼女から聞いた地震直後の壮絶な体験を思い出し、胸が締め付けられる。
すべての家がトタンの仮設小屋。高台から見ると、その様子が一目瞭然。
これは学校。
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いまだあちこちに地震の傷跡が残る環境だが、微笑ましくなる光景も多々。
水牛の背中を利用して、干してある枯草を食べようと必死で、ちょっと滑稽なヤギとか。
宿泊用に持っていたテントは、子どもたちの基地に早変わり。楽しいよね。
地震からもうすぐ1年。いろいろ変わってしまったこともあったけれど、新しい日常の中で、みな、たくましく生きていた。
サパナと親戚の人々。サパナの後ろにいる黒い服を着た女の子も、地震直後、かまどのある部屋で家の石材に埋もれ、首から下をかなり広い範囲で火傷。足の指3本は焼け落ちてしまった。もう痛みはないが、火傷の痕がかゆいと言っていた。
右斜め上に半分だけ顔が出ている女の子も、脊椎損傷し、まっすぐは歩けなくなってしまった。
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ところで、カトマンズを発つ際、サパナの心の支えになってくれている、車いす生活を送りながらも活躍している女性から、「絶対にカトマンズに戻ってくるんだよ」と言われていた。「村は居心地がいいけれど、そこで落ち着いたらダメ」と。
サパナ自身、村でずっと生活し続けたい気持ちと葛藤しながらも、一歩前に進みだしたとも聞いている。
それは、昨年落ちてしまったSLC試験(若者の進学・就職など将来を左右する重要な試験)を再受験したということ。
サパナのSLC試験にまつわる話題は、またの機会にでも。