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2016年4月22日金曜日

村訪問2:カビタの実家(ドラカ郡シンガティ近く)

3月末のラスワ郡トゥロガウン村訪問に続き、4月初旬に行ってきたのは、ドラカ郡バル村。ここは、いつもオフィスでおいしい賄い食を作ってくれる、勤続6年目になる女性スタッフの実家。(彼女の嫁ぎ先の村には、震災1か月後に訪問している

昨年4月25日の本震での被害も大きかったようだが、さらなる打撃を与えたのが、5月12日発生の最大余震(M7.3)。村からも近い場所が震源地で、周辺で多数土砂崩れが起きたそうだ。

村の石造りの家はすべて崩壊。不幸中の幸いで、村にいて家屋の下敷きになって亡くなった人はいなかったそうだが、周辺の道を歩いていて、土砂の下敷きになり亡くなった方は何名かいると。

村人もよく通る、シンガティ村より先の最寄りの車道では、走行中のバスが土砂崩れに巻き込まれた。バスの中からは子供の泣き声がずっと聞こえていたが、余震も続き、土砂が常に崩れ落ちてくる状況で救出作業もままならず、助けたくても助けられない状態だったらしい。3日目にその声も聞こえなくなった、と、地元の人が淡々と語ってくれた。

実際に近くを通ってみて、確かに、間近に迫る、風が吹いただけで土砂が落ちてきそうな山肌に恐怖を感じる。



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村は、ガウリシャンカール自然保護区域内にある。道中、山の合間にうっすら白い嶺が見えていた。



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シンガティ村からメインの道を脇に入り、3つほどの小さな集落を通り過ぎて到着した今回の訪問地。

途中までは通じていた携帯(ネパールテレコム、Ncellとも)の電波も、まるっきり入らない。今や、トレッキングルートでも携帯は通じ、開けた山の上にある村などでは、データ通信でのネット接続もサクサク可能な場所も多い中、久々に僻地感を実感する。

通過したどの集落も崖と川の間に存在する狭い土地にあり、大きな余震がきて土砂崩れが起きたら逃げ場がないような危険な環境の中、ここの土地は他の集落に比べるとやや開けており、同行している他のスタッフたちが安堵の表情を見せたのもつかの間、、、




新たに家を建てるには敷地が足りず、川に突き出し宙に浮いているような形で作らた小さな小屋が並ぶのを見て、一同唖然とする。




松の木で支えられているだけの土台。風が吹くだけでガタピシ言う。薄い木の板を渡しただけの床は抜けないだろうか。




家の壁も、トタンではなく、ふぞろいな木材と、竹で編んだ手作りのすだれのようなものを貼り付けただけの、つぎはぎだらけのもの。隙間風がモロ入ってくる、というより、屋根がある以外は、屋外とあまり変わらない環境。



地震後、ほとんどの被災村で、村民自らの手で建てられたトタンの仮設小屋。

「仮の住まい」のはずが、「仮」の域を超え、けっこうしっかり作ってあり、「真の住居」として扱われている家も多い。

しかし、ここの村のはどれも本当に質素すぎて言葉を失う。これで冬を越したというから、さぞかし寒かっただろう。

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地震前は12軒ほどの民家があっただけだったが、地震後、もっと山深くから避難してきた人たちもここに仮設の居を構え、民家数は倍ぐらいに増えたそうだ。

賄いスタッフ、昨秋地震後初めて帰省した際には、家々の配置も変わっており、自分の出身村ながら、初めての場所に来たような混乱を感じたと言っていた。

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農作業の閑散期である4月初旬は、村人総出でよく川魚を捕るそう。



岩の下に隠れる魚を中腰の前かがみになり必死に探す様子に、日本での潮干狩り光景が重なり、懐かしい気分に。



名前のない小魚がいろいろ捕れる中、メインは「アサラ」と呼ばれるマス(?)の一種。



唐揚げにしてご馳走してくれた。

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夕飯に出してくれたご馳走。手作業で精米した五分づきっぽいご飯に、石臼で挽いたダルのスープ、畑で取れたぜんまいを炒めたもの、自生しているミントのアチャール、目の前でしめてくれた鶏のカレー。他、水牛のミルクに自家製ヨーグルト。塩や調味料以外はすべて村で採れるもの。

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電気は引かれていないが、豊かな水資源があるため、村人たちが資金を出し合い、川の流れを利用した小さな水力発電所を作っている。このおかげで、日没~翌朝未明までは、電気を使うことができる。日照中は使えないが。

水道はないけれど、村の何か所かに、川の水を長いホースで引いた水場があり、常に水があふれている。地震後も枯れなかったし、目の前は川だから、水には困らなかったそうだ。

調理はいうまでもなく薪を使って。


地震直後の混乱の中でも、壊れた家から、鍋と、備蓄していた穀物を取り出し、畑から野菜を引っこ抜いてきて、薪を集め適当な場所にかまどを作ればよいだけだったから、煮炊きには困らなかったそうだ。

もともとインフラなど整っておらず、自給自足が当たり前。周辺、しばらくは土砂崩れで道も閉ざされ、軍のヘリによる支援物資投下などもあったそうだが、村人たちは、大変な状況下でも、案外たくましく過ごしていたことを実感。



村の男性の足。靴を履くことはほとんどなく、普段は裸足かぞうり。写真を撮った時は緊張で指が縮こまってしまったが、仕事をしているときは、開ききった自由な指が地面をガシッとつかみ、自然と共に生きている力強さがにじみ出ていた。

2 件のコメント:

  1. 『家畜になった日本人』に描かれたいたネパールの姿がそのままあって安心しました。

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  2. 村の方では今も昔もあまり変わりはないかもしれませんね。

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