2005年10月31日月曜日
ティハール
今日からティハールが始まった。
ダサインと続く、国民的祭だが、生け贄などの残酷的なところがない点が、割と、一般的にも大勢に好かれている祭だ。
通常5日続くこの祭の初日は、カラスにプジャをする日。今日がその日だった。
2日目(10月31日)は、犬にプジャをする日。犬は、人が死んだ後、天国へ導いてくれる存在として信じられている。だから、生きているうちに、かわいがっておき、死後の世界では、地獄じゃなくて、迷わず天国に導いてくれよ、という魂胆(願い)から、プジャをする。
おでこに赤いティカをつけられ、首から花輪をかけられて、戸惑っている犬たちを、多く見られる日。笑える日でもある。
その後、3日目(11月1日)には牝牛とラクシュミ女神ににプジャをする。牝牛へのプジャは、豪快で笑える。私的には非常に好きなプジャだ。
4日目(11月2日)は、牡牛にプジャもする。
5日目(11月3日)は、兄弟姉妹間で、健康と幸運を祈るための儀式を行う。
・・・と、盛りだくさんの5日間が続く。
さて、近くのスーパー(注)でも、ティハールに入った今日から、電飾によるライトアップが始まった。
ティハール前になると、『ジリミリ バッティ アヨ~』(チカチカ光る電気が来たよ~)などとと言いながら、電飾を持って売り歩く人たちも増える。
この電飾、海外ではクリスマス仕様で売られているものも多いようで、電源につなぐと、クリスマスソングが流れるものもある。
夜になるとどこか遠くから、かすかにクリスマスソングが聞こえてきたりする、ネパールの11月、ティハールでもある。
注:私の嫌いなスーパー。でも、最近、店内拡張工事が一段落して、客の密集度が減り、マナーの悪い客を間近で見なくてもすむようになったので、多少行きやすくはなった。レジも、込みあわなくなり、ヘイキで横入りする、太ったインド人のおばさんに悩まされることも少なくなったし。
2005年10月29日土曜日
無題
海外青年協力隊制度が、40周年を迎えたそうだ。
私は、医療技術系の免許を、一応持っている。日本では、一応、(この職を持っている人なら誰もがうらやましがる?一般職でいう『大手企業』的なイメージがある)大学病院勤務で、その専門職で、3年働いていた。
なぜ、『3年』働いたのかというと、実習に追われていた大学時代、やっと休みが取れると、アジアを旅行していて(まあ、よくあるパターンですね)、その時に、協力隊員に興味を持った時期があり、募集要項を読んだところ、私の技術の場合は、たいてい『実務経験3年』という条件が課されていたからだ。
だから、とりあえず3年は働こう(石の上にも3年というし)と思ったわけだ。
しかし、『実務経験を積んでいる』期間に、よく考えてみた。すると、私は、その技術を使うために、自分の意思とは関係なく割り当てられる見知らぬ国に行くよりも、技術を使えなくてもいいから、よく訪れていたネパールで、細々と役に立てたら、という気持ちのほうが強いことに気づいた。
それに、ここからは思い切り反感をかいそうな内容になるが、事前詰め込み学習で赴任地についての勉強をし、一度も訪れたことのない国に突然派遣され、指導するなんて横柄なことは、私には絶対にできないし、期間限定海外生活体験(しかもバックに大きな組織があって安心!)なんて条件で途上国に暮らして、自己満足を感じるなんて、その国の人に、失礼ではないか?、と、強く感じていた。
というわけで、自らの意思でこの国に入り、結局、今は、前職とは全く関係のない人生を送っている。
さて、日本で働いていた当時、同じ職場から、協力隊員として南米へ行った先輩がいる。
実務経験をつんだら、協力隊員として海外へ出たい、と言っていた大学時代の同級生も知っている。(結局その後どうなったのかは知らない)
だから、私が職場をやめたときは、同職の多くの人から『協力隊としてネパールへ行くんでしょ?』と言われたものだ。残念ながら、私の退職理由はそんな大それたものではなかったのだが。
NHKのニュースで、ちょこっとだけ、今日の式典の模様を流していた。
協力隊OBが、『つらいこともあったが、充実した2年間だった』といっていた。
限られたとても短い期間に、海外生活体験をし、充実して帰国できるって、ある意味、幸せでいいなあ、と思った。
私は、医療技術系の免許を、一応持っている。日本では、一応、(この職を持っている人なら誰もがうらやましがる?一般職でいう『大手企業』的なイメージがある)大学病院勤務で、その専門職で、3年働いていた。
なぜ、『3年』働いたのかというと、実習に追われていた大学時代、やっと休みが取れると、アジアを旅行していて(まあ、よくあるパターンですね)、その時に、協力隊員に興味を持った時期があり、募集要項を読んだところ、私の技術の場合は、たいてい『実務経験3年』という条件が課されていたからだ。
だから、とりあえず3年は働こう(石の上にも3年というし)と思ったわけだ。
しかし、『実務経験を積んでいる』期間に、よく考えてみた。すると、私は、その技術を使うために、自分の意思とは関係なく割り当てられる見知らぬ国に行くよりも、技術を使えなくてもいいから、よく訪れていたネパールで、細々と役に立てたら、という気持ちのほうが強いことに気づいた。
それに、ここからは思い切り反感をかいそうな内容になるが、事前詰め込み学習で赴任地についての勉強をし、一度も訪れたことのない国に突然派遣され、指導するなんて横柄なことは、私には絶対にできないし、期間限定海外生活体験(しかもバックに大きな組織があって安心!)なんて条件で途上国に暮らして、自己満足を感じるなんて、その国の人に、失礼ではないか?、と、強く感じていた。
というわけで、自らの意思でこの国に入り、結局、今は、前職とは全く関係のない人生を送っている。
さて、日本で働いていた当時、同じ職場から、協力隊員として南米へ行った先輩がいる。
実務経験をつんだら、協力隊員として海外へ出たい、と言っていた大学時代の同級生も知っている。(結局その後どうなったのかは知らない)
だから、私が職場をやめたときは、同職の多くの人から『協力隊としてネパールへ行くんでしょ?』と言われたものだ。残念ながら、私の退職理由はそんな大それたものではなかったのだが。
NHKのニュースで、ちょこっとだけ、今日の式典の模様を流していた。
協力隊OBが、『つらいこともあったが、充実した2年間だった』といっていた。
限られたとても短い期間に、海外生活体験をし、充実して帰国できるって、ある意味、幸せでいいなあ、と思った。
2005年10月27日木曜日
ラミタとの会話
Ramita、18歳。
2ヶ月前に上京したばかりの、私たちのスタッフ。
カトマンズからバスで約10時間かけて、エベレスト街道トレッキングの始発地点『ジリ』まで行き、そこから徒歩で約5日かけて行った所に、彼女の村がある(らしい)。マオイスト問題で村に住みづらくなり、上京してきた。
村では、農作業の手伝いが彼女の仕事で、学校にはほとんど通ったことがない。だから、学校で学ぶようなことについての知識はあまりないが、自然のこと(花が咲く季節や、野菜が実る季節)についてはとても詳しく、話していて教えられることも多い。
素朴で明るい性格も手伝ってか、何も知らない、純粋な彼女と話していると、心が和む。
さて、その彼女の妹(17歳)が、12月頃結婚することになったという。
結婚式にあわせて、帰省するから、15日ほど休みがほしい、と言い出した。
彼女の代理がいないので、そんなに長く、休みをあげることは出来ない。
休暇日数短縮のために、特別に飛行機代はオフィスで負担してあげる、ということになった(それでも、最寄の空港から丸2日歩かなければいけないようだが)。
純粋な彼女を、他のスタッフが少しからかってみる。
スタッフ:村はカトマンズよりも高いところにあるんでしょ?カトマンズまでの道のりは、どんな感じだった?
ラミタ:ずっと下りだったわ。
スタッフ:じゃあ、村に行くときは、ずっと登りになるから、行きの飛行機代は高くなるねえ。
ラミタ:へえ、そうなの?
スタッフ:当たり前だよ。人間だって、下りより登りのほうが疲れるでしょ。ご飯もたくさん食べないと、登りは疲れて大変だよね?それと同じで、飛行機にも、たくさん燃料を与えないといけないから、高くなるんだよ。
ラミタ:そうかあ。
===
信じてしまうところが、かわいい。村出身の純粋な女の子だ。
2ヶ月前に上京したばかりの、私たちのスタッフ。
カトマンズからバスで約10時間かけて、エベレスト街道トレッキングの始発地点『ジリ』まで行き、そこから徒歩で約5日かけて行った所に、彼女の村がある(らしい)。マオイスト問題で村に住みづらくなり、上京してきた。
村では、農作業の手伝いが彼女の仕事で、学校にはほとんど通ったことがない。だから、学校で学ぶようなことについての知識はあまりないが、自然のこと(花が咲く季節や、野菜が実る季節)についてはとても詳しく、話していて教えられることも多い。
素朴で明るい性格も手伝ってか、何も知らない、純粋な彼女と話していると、心が和む。
さて、その彼女の妹(17歳)が、12月頃結婚することになったという。
結婚式にあわせて、帰省するから、15日ほど休みがほしい、と言い出した。
彼女の代理がいないので、そんなに長く、休みをあげることは出来ない。
休暇日数短縮のために、特別に飛行機代はオフィスで負担してあげる、ということになった(それでも、最寄の空港から丸2日歩かなければいけないようだが)。
純粋な彼女を、他のスタッフが少しからかってみる。
スタッフ:村はカトマンズよりも高いところにあるんでしょ?カトマンズまでの道のりは、どんな感じだった?
ラミタ:ずっと下りだったわ。
スタッフ:じゃあ、村に行くときは、ずっと登りになるから、行きの飛行機代は高くなるねえ。
ラミタ:へえ、そうなの?
スタッフ:当たり前だよ。人間だって、下りより登りのほうが疲れるでしょ。ご飯もたくさん食べないと、登りは疲れて大変だよね?それと同じで、飛行機にも、たくさん燃料を与えないといけないから、高くなるんだよ。
ラミタ:そうかあ。
===
信じてしまうところが、かわいい。村出身の純粋な女の子だ。
2005年10月26日水曜日
少数民族が住む村はどこ?
はじめてネパールに来て、こういう質問をする人が、ときどきいる。
「民族衣装を着た人たちは、どこで見られますか?」という質問をする人もいる。
多分、タイ北部などにいる山岳少数民族などをイメージして、質問しているのだと思うが、『ネパールにおける少数民族』について、どう回答していいのか、とても困る。
ネパールは、日本の3/4程度の面積しかない小さな国だが、その中には、たくさんの民族が住んでいる。正確な数は忘れてしまったが、その数50以上で、それぞれが、他の民族とは違う言語、習慣、伝統儀式、民族衣装を持っている。
みんな、『ネパール人』である前に『○○族』であるアイデンティティを持っている(ように見える)。
そう考えると、ネパール国内、どこに行っても違った民族に出会えるわけで、旅行者が言う『少数民族』の意味が、私にはわからないのだ。(『少数民族』の定義とは?)
例えば、カトマンズ盆地内ではどこに行っても『ネワール族』を見ることができ、盆地のはずれ、北東部の丘陵地帯では、『タマン族』が多く住む村に出会える。
ポカラ周辺には『グルン族』が多く暮らしているし、エベレスト近くの山岳地へ行けば、『シェルパ族』だらけになる。その下や、ポカラのずっと下には『マガル族』が多く、ネパールの東の端には『ライ族』『リンブー族』が多い。
南ネパールに行けば、『タルー族』や、北インドの影響を強く受けている民族もいる。
『民族』に属さない、バフン・チェットリは、どこにでもいるし、それとは逆に、絶滅しかけている民族もいる(らしい)。
旅行中に接するネパール人は、一見みんな同じネパール人ではあるが、実は、習慣や言葉、冠婚葬祭に着る民族衣装など、異なった文化を持つ違った民族である可能性は高い。(まあ、民族間でそれほど大きく違わない場合もあるが)
ちなみに、ヒマラヤン・アクティビティーズのオフィスには、カトマンズ近郊に住む『バフン』、カトマンズの中心部で生まれ育った『ネワール族』、エベレスト方面から来た『シェルパ族』『マガル族』、カトマンズ盆地北東から来た『タマン族』などがいる。
以前は、ネパール東部出身の『リンブー族』などもいた。
それぞれの村の話や習慣を聞くと、民族色がよく出ていておもしろいのだが、ひとくくりにすれば、みんな『ネパール人』なわけなので、はじめて彼らと接しても、民族ごとの違いはよくわからないだろう。
===
さて、特定の民族が住む村へ行けば、民族衣装をバッチリ着こなして生活している人たちの姿を見られるのか、というと、そうでもない。だからといって、日本人のように普段はみんな洋服を着て過ごしているわけでもない。
お年寄りは、それぞれの民族の衣装を少し着崩して、普段着にしている人も多い。民族ごとの衣装の違いが何となくわかる者にとっては、○○族の村だから、何となくそれっぽい着こなしだなあ、と、気づくし、おもしろいが、はじめて訪れる旅行者が見ても、多分、全部同じように見えてしまうのがオチだ。
===
『民族衣装を着た少数民族』は、カトマンズ近くではどこで見られるのか?と質問する人に対して、しかたないので、私はこう答えている。
とりあえず、ボウダナート付近に行けば、『シェルパ』の民族衣装を着た『シェルパ族』を見ることができますよ、と。シェルパ族の衣装は、一目でわかるので、視覚的に満足できるだろう。
それから、パタンやバクタプルへ行くと、『ネワール族』の民族衣装を着ている人たちもたくさん見られますよ、と告げるが、果たして、見分けがつけられるか。
ネワール族の民族衣装は、黒地の裾に赤いラインの入った綿の布(サリー)を身にまとい、白い腹巻のような布をぐるぐるお腹に巻きつける感じ。ネワール族の多い、パタンやバクタプルに行くと、そういう民族衣装を着崩して普段着にしているお年寄りが多く見られる。しかし、『バッチリ民族衣装を着こなしている』わけではないし、『民族衣装を着ていること』を観光のウリ文句にしているわけでもないので、はじめてネパールにきて、民族衣装を探す旅行者には、多分全く見分けはつかないだろう。
「民族衣装を着た人たちは、どこで見られますか?」という質問をする人もいる。
多分、タイ北部などにいる山岳少数民族などをイメージして、質問しているのだと思うが、『ネパールにおける少数民族』について、どう回答していいのか、とても困る。
ネパールは、日本の3/4程度の面積しかない小さな国だが、その中には、たくさんの民族が住んでいる。正確な数は忘れてしまったが、その数50以上で、それぞれが、他の民族とは違う言語、習慣、伝統儀式、民族衣装を持っている。
みんな、『ネパール人』である前に『○○族』であるアイデンティティを持っている(ように見える)。
そう考えると、ネパール国内、どこに行っても違った民族に出会えるわけで、旅行者が言う『少数民族』の意味が、私にはわからないのだ。(『少数民族』の定義とは?)
例えば、カトマンズ盆地内ではどこに行っても『ネワール族』を見ることができ、盆地のはずれ、北東部の丘陵地帯では、『タマン族』が多く住む村に出会える。
ポカラ周辺には『グルン族』が多く暮らしているし、エベレスト近くの山岳地へ行けば、『シェルパ族』だらけになる。その下や、ポカラのずっと下には『マガル族』が多く、ネパールの東の端には『ライ族』『リンブー族』が多い。
南ネパールに行けば、『タルー族』や、北インドの影響を強く受けている民族もいる。
『民族』に属さない、バフン・チェットリは、どこにでもいるし、それとは逆に、絶滅しかけている民族もいる(らしい)。
旅行中に接するネパール人は、一見みんな同じネパール人ではあるが、実は、習慣や言葉、冠婚葬祭に着る民族衣装など、異なった文化を持つ違った民族である可能性は高い。(まあ、民族間でそれほど大きく違わない場合もあるが)
ちなみに、ヒマラヤン・アクティビティーズのオフィスには、カトマンズ近郊に住む『バフン』、カトマンズの中心部で生まれ育った『ネワール族』、エベレスト方面から来た『シェルパ族』『マガル族』、カトマンズ盆地北東から来た『タマン族』などがいる。
以前は、ネパール東部出身の『リンブー族』などもいた。
それぞれの村の話や習慣を聞くと、民族色がよく出ていておもしろいのだが、ひとくくりにすれば、みんな『ネパール人』なわけなので、はじめて彼らと接しても、民族ごとの違いはよくわからないだろう。
===
さて、特定の民族が住む村へ行けば、民族衣装をバッチリ着こなして生活している人たちの姿を見られるのか、というと、そうでもない。だからといって、日本人のように普段はみんな洋服を着て過ごしているわけでもない。
お年寄りは、それぞれの民族の衣装を少し着崩して、普段着にしている人も多い。民族ごとの衣装の違いが何となくわかる者にとっては、○○族の村だから、何となくそれっぽい着こなしだなあ、と、気づくし、おもしろいが、はじめて訪れる旅行者が見ても、多分、全部同じように見えてしまうのがオチだ。
===
『民族衣装を着た少数民族』は、カトマンズ近くではどこで見られるのか?と質問する人に対して、しかたないので、私はこう答えている。
とりあえず、ボウダナート付近に行けば、『シェルパ』の民族衣装を着た『シェルパ族』を見ることができますよ、と。シェルパ族の衣装は、一目でわかるので、視覚的に満足できるだろう。
それから、パタンやバクタプルへ行くと、『ネワール族』の民族衣装を着ている人たちもたくさん見られますよ、と告げるが、果たして、見分けがつけられるか。
ネワール族の民族衣装は、黒地の裾に赤いラインの入った綿の布(サリー)を身にまとい、白い腹巻のような布をぐるぐるお腹に巻きつける感じ。ネワール族の多い、パタンやバクタプルに行くと、そういう民族衣装を着崩して普段着にしているお年寄りが多く見られる。しかし、『バッチリ民族衣装を着こなしている』わけではないし、『民族衣装を着ていること』を観光のウリ文句にしているわけでもないので、はじめてネパールにきて、民族衣装を探す旅行者には、多分全く見分けはつかないだろう。
2005年10月25日火曜日
おすそわけ
2005年10月24日月曜日
トレッキング情報
エベレスト方面と、ランタン方面へ行っているガイドから、先日連絡が入った。
エベレスト方面は、大変込み合っているようだ。
毎年、この時期になると、とにかく混雑するルートなのだ。ロッジ確保も大変になる。(シーズン中は部屋が足りなくなり、代わりに用意されたテントに泊まらなくてはいけなくなる場合もある)
単独トレッキングを安易に計画する、ネパールトレッキング初心者も多いが、この時期はロッジ確保なども大変になることを肝に銘じていこう。
そうそう、先日カトマンズで季節外れの雨が降った時には、4000m以上ではかなり雪も降ったらしい。
まだ、そんなに寒くなる季節じゃないし、と油断していると、大変な目にあうこともある。気をつけよう。
さて、10月にエベレスト方面へ行く外国人トレッカー数は、他の月に比べると、ハンパじゃなく多い。
先日、私がナムチェまで行ったのは、7月だった。エベレスト方面7月の月間トレッカー数はどの年も、大体、50~150人ほどだ。年によっては、50名以下の場合もある。
しかし、シーズンに入る10月は、5000人を越えるトレッカーが、エベレスト方面を訪れる。
数だけ見ると、それほど多くもないのだが、他の月と比較すると、その差はかなり大きい。この時期のエベレスト方面トレッキングがどれだけ人気があるか、想像もつくだろう。
2005年10月22日土曜日
猫の仕事
今日は、ネパールとはあまり関係ない話。
ウチの飼い猫は、よく、外でネズミを捕まえては、家の中に持ってくる。
獲物のネズミは、体調20cmほどとかなり大きく、黒々とした毛がフサフサしているヤツが多い。日本でいうと『トブネズミ』になるのだろうか。
狩をして得た物をご主人様(私)に見せたい、という猫の習性だから、しかたないことなのだが、ズッシリ重いネズミの死骸を始末するのは私の役目で、いつも気が重い。
昨日は、私のスクーターの上に、見慣れない小動物の歯付頭蓋骨の一部が乗っていて、驚いた。
多分、ダサインの時に生け贄にされたヤギの頭(の一部)がどこかに転がっていて、それをウチの猫が拾ってきたのだろう。
片付けている姿を大家に見られ、言われてしまった。
ビーチャ(注1)はよく、庭にもネズミを持ってきてるよね。この前も、大きなネズミが2匹、死んでたよ。
そうか。室内に持ち込むだけでなく、庭にも死骸を残していたのか、と、はじめて気づく。そして、その始末をしてくれている大家に対して、少し申し訳なく思う。
ウチのビーちゃん(注1)が迷惑かけていたなんて、知らなかったわ。
と大家に言うと、
全然気にしてないよ。それが猫の仕事だからね。
と、好意的な返事(注2)を返してくれた。
確かに、ネズミを狩るのが猫の仕事であるし、そういう野性的な猫が、猫らしくていいと思うのだが、室内で、ネズミの死骸を片付けたり、正体不明の小動物の骨を見るのは、もうコリゴリだ。
・・・ということで、鈴付首輪(注3)をつけることにした。
これで、ウチの猫がネズミを捕まえる前に、ネズミが気づいて逃げてくれるはずだ。
『猫の仕事』を奪ってしまうのは、かわいそうな気もするが、こればかりは仕方ない。
注1:ネパール語で猫のことを『ビラロ』、ヒンディ語で『ビッリ』という。『ビラロ』『ビッリ』の『ビ』に『ちゃん』をつけたのが、ウチの猫の名前、ビーちゃん。でも、大家が呼ぶと『ビーチャ』となる。
注2:こういう返事をきくと、ここがネパールでよかったなあ、と思う。日本だと、ネチネチ言われてしまうのだろうか?
注3:ペット関連商品は、ネパールでは高い。だから、今年始めに帰国した時に、100均で、鈴付首輪を買ってきていた。
2005年10月20日木曜日
季節はずれの雨
カトマンズでは、ここ2日間、季節外れの雨が降っている。
それも、けっこう強い雨。
10月も後半になって、こんな強い雨を経験したのは、この6年間で、多分はじめてだ。気温も下がって、今日は寒い一日だった。セーターを着てもちょうどいいぐらい。
さて、季節外れのこの時期の雨について、聞いたところによると、先日のブログにも書いた、38年ぶりの行事(儀式というべき?)が成功したから、こうやって、雨が降ったのだという。
こんな時期に雨が降ることは珍しいので、かなり真実味もある。
まあそれはいいとして、
季節の変わり目になると、まとまった雨がふるカトマンズ。この雨を境に、また少しずつ寒くなっていくのだろうなあ、と思う。
それも、けっこう強い雨。
10月も後半になって、こんな強い雨を経験したのは、この6年間で、多分はじめてだ。気温も下がって、今日は寒い一日だった。セーターを着てもちょうどいいぐらい。
さて、季節外れのこの時期の雨について、聞いたところによると、先日のブログにも書いた、38年ぶりの行事(儀式というべき?)が成功したから、こうやって、雨が降ったのだという。
こんな時期に雨が降ることは珍しいので、かなり真実味もある。
まあそれはいいとして、
季節の変わり目になると、まとまった雨がふるカトマンズ。この雨を境に、また少しずつ寒くなっていくのだろうなあ、と思う。
2005年10月17日月曜日
38年ぶりの日
どこへ行っても、背中にリュックを背負って、すがすがしい表情で歩く人たちの行列を見かけた今日。
38年ぶりに、暦上で、次の条件(+その他いろいろ)が重なった日。
1.暦上での、新しい月の1日
2.月食
3.ネパール公式暦(太陰太陽暦)のアソジ月(6月)の満月
4.月曜日
5.その他色々(シロートには、わかりません)
これらの条件が重なる日、仏教徒は、108以上の寺院を歩いて周る習慣があるらしい。
熱心な人たちは、日の出前から、参拝を始めたそうだ。 (私の周りはヒンドゥ教徒ばかりなので、この習慣を重視する人たちはいなかった。だから、詳しいことは、よくわからん)
寺院前には、飲料水がふるまわれ、病人用のちょっとした救急所も設置されていた。
なんか、ウォークラリーみたい。
歩く人たちの行列は、夜になっても途切れることがなかった。
2005年10月16日日曜日
旅行者向けレストラン
ネパールのフォークダンスを見せてくれるレストラン。
名の知られている民族(シェルパ、タマン、グルン、ネワール)&タライ地方の民族の衣装を着た女性たちが、かわいい踊りを見せてくれる。
この手のレストランは、カトマンズに何軒かあるが、私が気に入っているのは、ここ。
ネパールのフォークダンス、気取らない雰囲気が、楽しいね。
旅行で訪れたら、一度は訪れてみるのもいいかも。
2005年10月15日土曜日
蛇使い
2005年10月13日木曜日
バフン宅訪問時の注意
儀式や祭りの際にはいつも、ヒンドゥの行事を大事にする、バフン(ヒンドゥ教最上カースト)の知人の家を訪れる。
パタン郊外の、ネワール族が多く住む地域を通り越した場所に、彼らが住む家がある。
カトマンズからスクーターで約1時間。カトマンズよりも300mほど標高が高い。だからだろうか、村に近づくにつれ、気温がぐっと下がるのを、いつも肌で感じる。森を抜け、ひんやりした空気を感じると、カトマンズから少し離れた場所に来た事を、実感する。
今でも、かまどで煮炊きをし、水も、近くの水場から汲んで来た水を使う生活が残る、彼らの村。カトマンズからたったの20kmほどしか離れていないが、素朴な暮らしが残るこの場所を訪れると、ほっとする。
都会育ちの私としては、1泊以上の滞在は億劫なのでゴメンなのだが、時々訪れる分には、とても楽しい村訪問。
しかし、バフンの家。異カースト(というよりカースト外)である身分の私は、いろいろ気をつけなくてはいけないこともあり、滞在中気を抜けないこともあるのが、実情だ。
例えば台所。本来、バフンは、『穢れる』という理由で、異カーストを台所には入れない。
外国人である私に対しては、それほど気にしていないようだ。しかし私はいつも、意識しながら、低カーストがするように、かまどから遠く離れた場所に座るようにしている。
しかし、『低カースト』と『カースト外』は違うから、さすがに、そこまで離れて座ることはないようで、いつも、かまど近くへ招き寄せてはくれる。
が、かまどまでの距離がある程度近くなると、そこから中には、絶対に近寄らせてくれない。まあ、私も、『カースト外』であることを自覚しているので、近寄るつもりもないが。(だから、かまど周辺の写真はズームを最大にきかせて撮るのだ)
それから、いつも、この家の女性は、私が訪れると、男性陣がいないところで、私にこっそりと、生理中でないことを確認する。生理中の女性も、穢れモノ扱いしなければいけないからだ。
生理中に、のこのこバフンの台所に入るなんて無神経なこと、しないわよ、と、いつも確認されるたびに思うのだが、信仰心の強い女性たちが神経質に毎回訊ねてくる気持ちも、わからなくもない。
さて、お邪魔させていただいている身としては、何か手伝いたい所だが、下手に色々なものに触ると、穢してしまうことになりかねない。だから、かまどから離れたところに座って、与えられたもの以外には触れず、ただ、じっとしているのみ。文章にするとミジメなガイジンだが、これはこれで、けっこう気楽で、楽しかったりする。
庭に植えてある植物なども、下手に触れられない。女性が摘んではいけない、神様としても崇められている植物などがあるからだ。
写真は、外にあるほこら。この上に、神様として崇められている植物(トゥラシ)が植わっている。『トゥラシ茶』のトゥラシだ。生葉のにおいをかごうとして、うっかり摘みそうになり、摘んじゃダメ!と注意されてしまう私。
こんな感じなので、いつも、とにかく、おとなしくしているのみである。これが、私にとっても、彼らにとっても、一番安心な滞在方法だからだ。
2005年10月12日水曜日
ココナッツ無プジャの結末
ダサイン祭9日目には、機械(モーター)類にもプジャをする。
数ヶ月前に買い換えた中古のスクーターにプジャをしてもらうために、ヒンドゥの司祭師を父に持つ知人の家を、1泊の予定で訪問する。
新車の場合は、乗り始める前にプジャをする必要があったのだが、私が買い換えたのは、中古品。中古なら、前の持ち主が、ちゃんとプジャをしていたはずだから、ダサインの時までプジャをしなくても、まあ、大丈夫でしょう、ということで、今日までプジャをしないまま乗り続けていた。
今回のプジャに備え、必要なグッズ、特に、ココナッツを忘れずに持ってくるよう言われていたのだが、用意するのをすっかり忘れていた。
今朝、プジャ直前になって、家の人に、ココナッツを探しに行ってもらったのだが、プジャグッズを売るどの店でも、売り切れ。
ということで、ココナッツなしでの、プジャが始まる。
ココナッツは、プジャ終盤に差し掛かった頃に、かち割られ、中から出てくる汁を、バイクにふりかける、という作業の際に、必要となる。
バチあたりかもしれないが、私は、この、『ココナッツジュースをバイクにふりかけられる』のが苦手。あとでベタベタするからイヤなのだ。 (ヒンドゥの儀式の中には、もっとすごいこと~牝牛のオシッコを飲む等~もあるので、『ココナッツジュースかけ』ぐらいでひるんでいてはやってられないのだが)
だから、内心、今日はココナッツが入手できずにほっとしていた。
いつもプジャをしてくれる、ヒンドゥ教司祭師のお父さんが、他でのプジャのため外出中で、お父さんから託されたプジャグッズをそろえて、嫁が代理でプジャを担当する。
・・・一通りプジャが終わる。
・・・その後、カトマンズに戻る時。
エンジンをかけようとオートスタートボタンを押したところ、うんともすんとも言わない。さっきまで、なんともなかったのに。
どうやら、プジャ前にスクーターを水洗いした際に、故障してしまったようだ。(キックを使えばエンジンはかかるが、非常に不便)
安全運転祈願のために、プジャをしたのに、なんとなく嫌な結末。
ココナッツがなかったからかしら? それとも、義父の代理で私がしたからかしら?と、嫁はひどく気にしながら、私を見送ってくれたのだった。
2005年10月11日火曜日
保存の知恵
生け贄のヤギは、解体されて、食用肉となる。
みんなで分け合い、各自、家に持ち帰る。
冷蔵庫のない家で暮らす現地の人たち。1回では食べ切れる量ではない肉類をどのように保存するのか。
腐りやすい内臓類は、その日のうちに調理して、お腹の中に入れる。
その日のうちに食べきれない肉類には、石(写真右)を使ってつぶしたニンニクやしょうが、マサラ(スパイス)類をなじませ、火を通す。こうすることで、腐りにくくなるのだ。
近くに住む親戚などにも分け、明日明後日頃までには食べ切る、という計算だ。
ネワール族や、他の民族ではこの日、水牛を生け贄にする事も多い。
解体後の大量の肉は、このようにして干し肉にする。(村のネワール族宅にて撮影。逆光のため、シルエットのみとなりました)
これもまた、おいしい。
みんなで分け合い、各自、家に持ち帰る。
冷蔵庫のない家で暮らす現地の人たち。1回では食べ切れる量ではない肉類をどのように保存するのか。
腐りやすい内臓類は、その日のうちに調理して、お腹の中に入れる。
その日のうちに食べきれない肉類には、石(写真右)を使ってつぶしたニンニクやしょうが、マサラ(スパイス)類をなじませ、火を通す。こうすることで、腐りにくくなるのだ。
近くに住む親戚などにも分け、明日明後日頃までには食べ切る、という計算だ。
ネワール族や、他の民族ではこの日、水牛を生け贄にする事も多い。
解体後の大量の肉は、このようにして干し肉にする。(村のネワール族宅にて撮影。逆光のため、シルエットのみとなりました)
これもまた、おいしい。
2005年10月10日月曜日
ヤギの運命
生け贄は残酷で、この時期のヤギの鳴き声を聞くと悲しくなる、といいながらも、祭気分に乗せられて、スタッフ用に、ヤギを一頭確保した。
食用になるのはすべてオスだが、去勢をしているオス(ネパール語でカシ)と、去勢をしていないオス(ネパール語でボコ)の、2通りのヤギがこの時期市場で売られる。
私達は、去勢していないヤギ、『ボコ』を一頭購入することに。ボコは、生きている間はクサイのが難点なのだが、調理後はカシよりも、おいしい!
だから、ボコを選んだ、という単純な理由のほかに、宗教的な意味も、実はあった。
ダサインは、ドゥルガ(女神)に関連する祭りで、生け贄は、ドゥルガにささげるために行うわけだが、生け贄用には、真っ黒な『ボコ』が良いとされている。
ということで、おいしいし、生け贄用にも適している、黒いボコを探しに、市場へスタッフを向かわせる。
スタッフは、バイク(二人乗り)で、市場まで買いに行った(買ったボコを、後部座席に乗っている者が抱えて運ぶため。結局大きすぎて、タクシーに乗せて運ぶことになったのだが)。
携帯電話を通じて、オフィスに残っているスタッフと、市場へ行ったスタッフとで、やり取りしながら、選別。
丸々太っていて、まだら模様のおいしそうなボコ発見、とのことで、連れてこられたのが、写真のこれ。
翌日は朝から解体作業に入る、とのことで、私も夜、ボコを見に行く。明日はみんなの胃の中に入ってしまう、彼。メエメエないていて、何となく情が移ってしまう。なんだかんだ言いながら、結局食べる私なのだが。
===
村では、『生け贄用や、食用に連れてこられるヤギは、一日前に、自分が明日絞められる、ということを、知るから、メエメエ鳴き続けるのだ』と、言う。
明日の運命を知るヤギ。そんなこと聞くと、余計に情が移ってしまう。まあ結局は、知らない場所に連れて行かれて、不安な日々を過ごすことになるから、メエメエ鳴くのだろうけれど。
まさに、ドナドナの歌そのものの世界が、広がるのである。
2005年10月8日土曜日
カトマンズでの地震の恐怖
パキスタンで起きた地震で、死傷者もでている。
他国のこととは傍観できない現状が、ネパールにもある。
ここでも、地震の恐怖はある。1934年に大地震が起こり、たくさんの死傷者が出たという記録もあるらしい。
このときと同じ規模の大地震が近々起こる可能性は大いにあるそうだ。そして、もし起こると、カトマンズ盆地内でも、死者4万人以上、負傷者10万人以上、60%以上の建物が崩壊すると想定されているらしい。 (在ネパール日本大使館配布資料によるが、その元になった資料は、2005年1月14日付カトマンズポスト)
カトマンズの建築物は、レンガ造りが多い。最近建てられた建築物の中には、鉄筋が入っているものも多いようだが、昔の建物は、ただ、レンガを積み重ねただけ、という方法が取られているものも、多いらしい。地震がきたら、すぐに崩れてしまうだろう。
こちらの人たちは、地震が来ると、真っ先に外に逃げ出す。レンガ造りの家が、崩れやすいことを知っているのだろう。
日本では、避難訓練のたびに、『地震がきたらまず机の下にもぐりましょう。そして、揺れが収まったら、安全を確認して、外に逃げましょう』と教えられてきた。
だから、揺れると、今でも、まず、机の下にもぐってしまう習慣が抜けないが、こちらの民家でそんな悠長なことをしていたら、まず、命は助からないだろう。
とにかく、揺れを感じたら、外に逃げ出すこと。現地人の誰もが、そういう。
しかし、逃げるにしても、出口が限られてしまうのが、こちらの家の構造だ。
日本の家だったら、1階にいれば、玄関や勝手口までいかなくても、その辺の窓を開けて外に逃げ出すことが可能だが、こちらでは、そう簡単には事が運ばない。
1階の窓には、たいてい泥棒よけの鉄格子がはめられているから、出口が限定されてしまうのだ。
近くに窓があっても、そこからは逃げられない。
もし、カトマンズにも大地震が来たら、きっと、大変な被害が出るに違いない。
ネパールを訪れる旅行者は、治安のことをとても心配してくる人が多い。が、私個人的には、そのうち起こる可能性の高い(といわれている)大地震に対してのほうが、身に迫る恐怖を感じる。
他国のこととは傍観できない現状が、ネパールにもある。
ここでも、地震の恐怖はある。1934年に大地震が起こり、たくさんの死傷者が出たという記録もあるらしい。
このときと同じ規模の大地震が近々起こる可能性は大いにあるそうだ。そして、もし起こると、カトマンズ盆地内でも、死者4万人以上、負傷者10万人以上、60%以上の建物が崩壊すると想定されているらしい。 (在ネパール日本大使館配布資料によるが、その元になった資料は、2005年1月14日付カトマンズポスト)
カトマンズの建築物は、レンガ造りが多い。最近建てられた建築物の中には、鉄筋が入っているものも多いようだが、昔の建物は、ただ、レンガを積み重ねただけ、という方法が取られているものも、多いらしい。地震がきたら、すぐに崩れてしまうだろう。
こちらの人たちは、地震が来ると、真っ先に外に逃げ出す。レンガ造りの家が、崩れやすいことを知っているのだろう。
日本では、避難訓練のたびに、『地震がきたらまず机の下にもぐりましょう。そして、揺れが収まったら、安全を確認して、外に逃げましょう』と教えられてきた。
だから、揺れると、今でも、まず、机の下にもぐってしまう習慣が抜けないが、こちらの民家でそんな悠長なことをしていたら、まず、命は助からないだろう。
とにかく、揺れを感じたら、外に逃げ出すこと。現地人の誰もが、そういう。
しかし、逃げるにしても、出口が限られてしまうのが、こちらの家の構造だ。
日本の家だったら、1階にいれば、玄関や勝手口までいかなくても、その辺の窓を開けて外に逃げ出すことが可能だが、こちらでは、そう簡単には事が運ばない。
1階の窓には、たいてい泥棒よけの鉄格子がはめられているから、出口が限定されてしまうのだ。
近くに窓があっても、そこからは逃げられない。
もし、カトマンズにも大地震が来たら、きっと、大変な被害が出るに違いない。
ネパールを訪れる旅行者は、治安のことをとても心配してくる人が多い。が、私個人的には、そのうち起こる可能性の高い(といわれている)大地震に対してのほうが、身に迫る恐怖を感じる。
2005年10月6日木曜日
ルクラ空港滑走路にまつわる話
ネパール、エベレスト街道トレッキングの始発地点となることの多い、ルクラ(Lukla:標高約2800m)。
ここにある空港は、とても怖い。写真は、カトマンズからルクラに向かい、着陸する直前の様子。滑走路が見えてきたところ。この滑走路、舗装されたのはつい最近のこと。
山の緩やかな斜面を利用して、一本の滑走路が作られているのだが、全長おそらく500mもなく、非常に短い。着陸するときは上り斜面を利用することで、自然と速度が落ち、離陸するときは下り斜面を利用することで、自然と加速度がつくよう、滑走路の距離が長くなくても間に合うように、工夫されている。
滑走路が切れたところは、もう崖。先は山。一歩間違ったら、谷底に落ちるか、山に激突するか、どちらかの運命をたどることになり、恐ろしい。
このため、霧や雲の影響で先が見えないときは、すぐに欠航となる。雨期中などには、一週間ずっと欠航が続くことも、めずらしくない。カトマンズ発ルクラ行きのフライトが、ルクラ間近まで飛んだものの、視界不良のためカトマンズに引き返す、というようなことも、よくある話。
さて、先日、テレビで、フライト欠航時のルクラ空港の様子を流していた。視界不良の影響で、ルクラ発着便全便欠航となったある日のこと。空港職員や地元の人が、滑走路でサッカーをしながら、楽しんでいる様子だった。
フライト欠航になり、トレッキングに出発できない外国人トレッカーたちがカトマンズで残念がっているとき、ルクラでは、そんなことをしていたのだな!
山腹のこの地域に、平坦な広い場所などあるはずがない。そこで、滑走路がグラウンドに早代わりする、というわけのようだ。なんとものどかな光景。
ボールを思いきり蹴ったら、滑走路先の崖下に消えていきそうで、少々心配だけれど。
2005年10月5日水曜日
残酷な日がやってくる
近所で、ヤギの鳴き声が聞こえ始めた。ダサイン祭8日目(アスタミの日。今年は10月11日)、生け贄として捧げるためのヤギを、近所の家で確保したようだ。
毎年この時期になると、近所で(生け贄用の)悲しいヤギの鳴き声が聞こえ始め憂鬱になる。
アスタミの日(10月11日)、女神を祭る寺院の地面は、生け贄により血だらけになる。広場や空き地でも、動物の首をはねて、解体する人たちの姿が見られる。
ヒンドゥ教バウン(ブラーマン)など、動物を絞めることのできないカーストでは、(食用)動物の代わりに『クビンド』と呼ばれる瓜系の植物を切る習慣もあるが、生け贄には、ニワトリやヤギが使われるのが一般的で、村では巨大な水牛を絞める場合もある。
5年前、タマン族の知人(女の子)が、ダサイン休みで村に帰省する際に、一緒に連れて行ってもらったことがある。
彼女の村では、村民総出で一頭の水牛を絞めるという。
ヤギを絞める(首が切り落とされる)シーンは見たことがあったのだが、水牛はヤギの何倍もでかい。ククリ(ネパールの刀)で、あんなに大きくて、太い首をどうやって切り落とすのか、ギモンだった。が、すぐにわかった。
広場には、生け贄シーンを見るために、見物人が大勢集まっている。
その中央に、頑丈なロープでつながれた水牛が、用意されている。そして、大きなククリや木槌を持った、男たちが周りを取り囲んでいる。
木槌?ヤギを絞める時には、そんなものは使わない。
木槌は、水牛の頭(前頭部)を思い切り殴るために使われるのだ。
水牛は巨大だ。だから、ククリで一気に首を切り落とすことができない。少しずつじわじわ殺すと、痛み水牛があばれまわり、手に負えなくなる。だから、首にククリを入れる前に、頭を何度も殴りつけ、感覚を麻痺させてしまうために、木槌が使われるのだ。
なんて残酷な!
でも、村人たちはみんな興奮気味で、歓声をあげている。広場には、あばれまわる水牛を取り囲み、白熱した熱気が漂っている。その熱気には、異様な狂気さえ感じられる。
頭を何度も殴られ、朦朧とし始めた水牛の首にククリを入れる。
もうだめだ。見ていられなくなって、私はその場を離れた。
===
残酷に首を切られた水牛は、その後村人の手で解体され、全ての人に平等に分けられる。
絞めるシーンを見られなかった割には、村独特の調理法で出された水牛メニューを、おいしく食べてしまった、都合のいい私。
===
そういう日が、もうすぐやってくる。
===
ところで、日本では、子供の教育に悪い!といって、すぐに禁止されそうな習慣だ。あんなシーンを見せたら、子供がマネするからダメ、とか、言いそうだね。
でも、こちらでは、大人も子供も、当たり前のように毎年目にしている。が、子供の教育に悪影響を与えているとは、思えない。
まあ、そんなことはどうでもいいのだが。
毎年この時期になると、近所で(生け贄用の)悲しいヤギの鳴き声が聞こえ始め憂鬱になる。
アスタミの日(10月11日)、女神を祭る寺院の地面は、生け贄により血だらけになる。広場や空き地でも、動物の首をはねて、解体する人たちの姿が見られる。
ヒンドゥ教バウン(ブラーマン)など、動物を絞めることのできないカーストでは、(食用)動物の代わりに『クビンド』と呼ばれる瓜系の植物を切る習慣もあるが、生け贄には、ニワトリやヤギが使われるのが一般的で、村では巨大な水牛を絞める場合もある。
5年前、タマン族の知人(女の子)が、ダサイン休みで村に帰省する際に、一緒に連れて行ってもらったことがある。
彼女の村では、村民総出で一頭の水牛を絞めるという。
ヤギを絞める(首が切り落とされる)シーンは見たことがあったのだが、水牛はヤギの何倍もでかい。ククリ(ネパールの刀)で、あんなに大きくて、太い首をどうやって切り落とすのか、ギモンだった。が、すぐにわかった。
広場には、生け贄シーンを見るために、見物人が大勢集まっている。
その中央に、頑丈なロープでつながれた水牛が、用意されている。そして、大きなククリや木槌を持った、男たちが周りを取り囲んでいる。
木槌?ヤギを絞める時には、そんなものは使わない。
木槌は、水牛の頭(前頭部)を思い切り殴るために使われるのだ。
水牛は巨大だ。だから、ククリで一気に首を切り落とすことができない。少しずつじわじわ殺すと、痛み水牛があばれまわり、手に負えなくなる。だから、首にククリを入れる前に、頭を何度も殴りつけ、感覚を麻痺させてしまうために、木槌が使われるのだ。
なんて残酷な!
でも、村人たちはみんな興奮気味で、歓声をあげている。広場には、あばれまわる水牛を取り囲み、白熱した熱気が漂っている。その熱気には、異様な狂気さえ感じられる。
頭を何度も殴られ、朦朧とし始めた水牛の首にククリを入れる。
もうだめだ。見ていられなくなって、私はその場を離れた。
===
残酷に首を切られた水牛は、その後村人の手で解体され、全ての人に平等に分けられる。
絞めるシーンを見られなかった割には、村独特の調理法で出された水牛メニューを、おいしく食べてしまった、都合のいい私。
===
そういう日が、もうすぐやってくる。
===
ところで、日本では、子供の教育に悪い!といって、すぐに禁止されそうな習慣だ。あんなシーンを見せたら、子供がマネするからダメ、とか、言いそうだね。
でも、こちらでは、大人も子供も、当たり前のように毎年目にしている。が、子供の教育に悪影響を与えているとは、思えない。
まあ、そんなことはどうでもいいのだが。
2005年10月3日月曜日
不思議な休日
今日は、部分日食だった。それが理由で、ネパールでは、突然の休日となった。
以前は、日食の日はあらかじめカレンダーにも休日と記されていたようだ。しかし、最近休みが減らされているネパール。しかも、2月に政変もあって、いろいろシステムも変わった。
このため、今年(ネパールの今年2062年は西暦の4月半ばから始まった)は、日食を休日扱いとするかしないかビミョーなところで、平日扱いとなっていたようだ。でも、数日前になって、「やっぱり休日にしちゃえ!」ということになったようだ。絶句、、、。
この日食、『パットロ』(*注)と呼ばれるカレンダー(日常使うカレンダーとはちょっと違う)には、しっかり明記されている。
*注:パットロとは、簡単に言うと、主にヒンドゥ教の司祭に携わる人たちが携帯するカレンダー。月の満ち欠けから、占星術に関わることまで、掲載されている。
これによると、今年(というのは西暦の今年じゃなくて、ビクラム暦2062年のこと)は、今日を含めて日食/月食が合計3回あるらしい。
次回の月食は2005年10月17日17:17から始まる。重なる部分が大きくなるのは17:49、終了は18:20。
日食は2006年3月29日17:04から始まる。重なる部分が大きくなるのは17:43、終了は18:11。
上記時間はいずれもネパール時間。
また、突然の休みが発表されるかもしれない。注意しておこう。
さて、部分日食があった今日。日食が始まる12時間前から断食を始める人たちも大勢いた。
日食中は、騒いだり、性交渉を持つことも不可。寝たり、トイレに行ったりしてもいけない。 (短い時間だから、がまんできるよね)
日食終了後、沐浴をし体を清め、室内にある汲み置きの水(水道が引かれていない村の家などでは、朝、水汲みをし、室内の水がめに水を溜めます)を全て捨て、きれいな水を汲み直す、信心深い人たちも、いた。
水を汲み直す人の中には、『日食の光線に当たった水は縁起が悪い』と信じている人も、いるようだ。日本でも昔、日食は不吉なもの、としてとらえられていたことがあったようだから、何となく納得もいく。
ところで、日食というと、部分的なものであっても、見てみたくなるのが人間というもの。
でも、ちょっと待った!むやみやたらに、見てはいけないのだ!!(目が痛くなるからじゃないよ)
星座によって、見ていいか悪いかが決まっているのだ。日食を見ると、『いいことが起こる』『財産が増える』星座もあれば、『心配事が増える』『浪費しやすくなる』『病気になる』ので見てはいけない星座もある。
なんだそれ、と言いたいところだが、占星術に基づき記されているものだから、信じることにしよう。
ちなみに、私は、西暦の誕生日では『いて座』だが、こちらの占星術によると、『しし座』であることが判明している。『しし座』は、今日の日食は見てはいけない星座として記述されていた。
ネパール語がわかる方、写真を拡大して、自分の星座を調べてみよう。
それにしても、科学の進歩が進んでいる今なら、このような月の動きも簡単に把握することができるけれど、大昔の人は、どのようにして、星や月の周期を知っていたのだろう。本当に不思議だ。
以前は、日食の日はあらかじめカレンダーにも休日と記されていたようだ。しかし、最近休みが減らされているネパール。しかも、2月に政変もあって、いろいろシステムも変わった。
このため、今年(ネパールの今年2062年は西暦の4月半ばから始まった)は、日食を休日扱いとするかしないかビミョーなところで、平日扱いとなっていたようだ。でも、数日前になって、「やっぱり休日にしちゃえ!」ということになったようだ。絶句、、、。
この日食、『パットロ』(*注)と呼ばれるカレンダー(日常使うカレンダーとはちょっと違う)には、しっかり明記されている。
*注:パットロとは、簡単に言うと、主にヒンドゥ教の司祭に携わる人たちが携帯するカレンダー。月の満ち欠けから、占星術に関わることまで、掲載されている。
これによると、今年(というのは西暦の今年じゃなくて、ビクラム暦2062年のこと)は、今日を含めて日食/月食が合計3回あるらしい。
次回の月食は2005年10月17日17:17から始まる。重なる部分が大きくなるのは17:49、終了は18:20。
日食は2006年3月29日17:04から始まる。重なる部分が大きくなるのは17:43、終了は18:11。
上記時間はいずれもネパール時間。
また、突然の休みが発表されるかもしれない。注意しておこう。
さて、部分日食があった今日。日食が始まる12時間前から断食を始める人たちも大勢いた。
日食中は、騒いだり、性交渉を持つことも不可。寝たり、トイレに行ったりしてもいけない。 (短い時間だから、がまんできるよね)
日食終了後、沐浴をし体を清め、室内にある汲み置きの水(水道が引かれていない村の家などでは、朝、水汲みをし、室内の水がめに水を溜めます)を全て捨て、きれいな水を汲み直す、信心深い人たちも、いた。
水を汲み直す人の中には、『日食の光線に当たった水は縁起が悪い』と信じている人も、いるようだ。日本でも昔、日食は不吉なもの、としてとらえられていたことがあったようだから、何となく納得もいく。
ところで、日食というと、部分的なものであっても、見てみたくなるのが人間というもの。
でも、ちょっと待った!むやみやたらに、見てはいけないのだ!!(目が痛くなるからじゃないよ)
星座によって、見ていいか悪いかが決まっているのだ。日食を見ると、『いいことが起こる』『財産が増える』星座もあれば、『心配事が増える』『浪費しやすくなる』『病気になる』ので見てはいけない星座もある。
なんだそれ、と言いたいところだが、占星術に基づき記されているものだから、信じることにしよう。
ちなみに、私は、西暦の誕生日では『いて座』だが、こちらの占星術によると、『しし座』であることが判明している。『しし座』は、今日の日食は見てはいけない星座として記述されていた。
ネパール語がわかる方、写真を拡大して、自分の星座を調べてみよう。
それにしても、科学の進歩が進んでいる今なら、このような月の動きも簡単に把握することができるけれど、大昔の人は、どのようにして、星や月の周期を知っていたのだろう。本当に不思議だ。
2005年10月2日日曜日
ネズミにかじられた!
郵便局に3つ荷物が届いているという知らせがあったので、本日取りに行った。 (左の写真は、普通郵便で送られた荷物が置いてある倉庫)
3つのうち1つは、来週ネパールに到着し、長期トレッキングへ行かれる予定の、ゲストの私用物(主に食品)が入った荷物だった。
荷物を受け取ると、一角に破られたような跡がある。 (写真参照)
中のものを盗み出せる程度の穴(注1)ではあるが、それにしては、何となく中途半端な大きさだ。
注1:船便などの場合、時々、中味の一部が盗まれることもある。
さて、こちらの郵便局では、荷物を受け取る際に、局員の前で開封し、チェックを受けなくてはいけない。
上記の荷物を開封し、穴がある部分に入れられていた物を取り出すと、そこには海の香りのする『スルメ』が。外袋共に、明らかにかじられた跡がある。
・・・どうやら、『ネズミ』が『スルメ』のにおいを嗅ぎつけて、ダンボールの外からかじったら、こうなってしまったようだ。
私 「でも、ネズミが魚(注2)なんてかじる?猫じゃあるまいし」
注2:スルメでも貝でも、海のない国・ネパールの人に説明するには、『魚』と言ってしまうのが、わかりやすくていい。
局員1 「食べ物のにおいがするものなら、ネズミは何でもかじるよ」
局員2 「この前も、白人がクニから送られてきたソーセージを受け取った時に、半分かじられていたよ(ハハハ)」
・・・何事もないように、笑って言うな、という感じだ。
確かに、倉庫の中にネズミがいるのは不思議ではないから、ネズミが食べ物の入った箱をかじってしまうことはしょうがない。でも、この状態を『ネズミの仕業』と簡単に片付けてしまう局員は、あまりにも頼りない。
私 「しょっちゅうかじられるなら、薬まけばいいじゃないの」
局員 「薬はまいてるんだけどねえ。自然発生しちゃうからしょうがないんだよ」
私 (半分冗談で)「じゃ、猫飼えばいいじゃないの。ウチの飼い猫は、よくネズミ捕まえてくるわよ」
局員 (割と真剣に)「カトマンズには猫はあまりいないからねえ。それに、上が許してくれないよ」
私 (冗談で)「ネズミは飼ってるくせに?」
局員 (弁解気味に)「ネズミは勝手に入ってきちゃうから、しょうがないんだよ」
・・・話にならん。
ニオイの強い食品をカトマンズまで送る場合は、ネズミにかじられる覚悟をしておこう。
2005年10月1日土曜日
祝!開設三周年!!
このブログは、今年の1月から始めたので、まだ1年経っていないのだが、ヒマラヤン・アクティビティーズのサイト(製作者は私)は、今日で開設3周年を迎えた。
日本に住む(数少ない)知人は、ネパールに全く関心がない人ばかりなので、私が作っているHPやブログを教えても、興味を示してくれる人はほとんどいない。
ということで、『私とは全く面識のない、(ネパール以外に住む)人で、ネパール旅行に興味がある人』に対して、『こちらが損になることを隠したりせず、客観的な視線で情報を提供しよう』というコンセプトで、発信している。(ブログは主観も交えています)
こんなかんじなので、以前、とある旅行者からは、『旅行会社のサイトとは言いながら、商売気が全く感じられないHPだけど、情報だけヒマラヤン・アクティビティーズのサイトから得て、実際には他の旅行会社を利用する人もいるのではないか?』と心配してもらったことがある。
まさにその通りで、旅行について(メールで)質問するだけ質問して、その後ぱったり音沙汰なくなり、他社を利用する人もいる。
ときどきあるのは、カトマンズ入り後、安さを求めて、日本人貧乏旅行者ばかりが集まる旅行会社に行くケース。もともと、『安さ重視』『日本人とつるむ』ことを目的として海外旅行をしている日本人の利用は非常に少ないが、稀に、どういうわけか間違って(?)そういう旅行者がやってくることもある。そういう場合は、こちらから『日本人貧乏旅行者専門の旅行会社』名を教え、『軌道修正』してあげる親切な私なのだ。(確かに、商売っ気ないね)
話しがそれたが、そんな感じで、サイト更新している。
ところで、今のデザインは、見ていただければわかるが『青薄緑白』がメインとなった配色となっている。『ネパールの高くて青い空と、白い雲、緑の丘』をイメージしたらこうなった。
が、以前は、センスの悪い配色だった。覚えてる人はいるだろうか。
ネパール人たちからは、『ダマイの服みたいじゃん。おかしいよ(注1)』と不評だった。
(注1) 『ダマイ』とは不可触民に当たる仕立て屋カースト。村人は、服を仕立てるために、『ダマイ』のところに布を持って行く。服を作ると、ハギレが出る。そのハギレを集めて、あるダマイが自分の服を作ったら、赤やら青やら黄色やら、色とりどりの服になってしまった。という小話を例にして、私が作ったホームページの色合いをけなした時のセリフ。『ダマイ』に対する差別的発言にも取れるが、ここでは、差別の意味で使ったわけではないので、許してあげよう。
その後、2003年10月にサイト一新して、現在のHPとなった。トップページの『日々のカトマンズ情報』を頻繁に更新し始めたのは、2004年1月から。その後、2005年1月にブログをはじめてからは、更新頻度は減ってしまったが、一週間に一度程度の割合で、カトマンズの客観的情報を更新している。
過去ゲストブックにメッセージを残してくれた利用者たちの『利用者の声』は読み物としても楽しい。
2003年以降更新を怠っているが、トレッキングガイドたちがトレッキング中につけるネパール語の日記を日本語訳し、掲載している『ガイドのトレッキング日記』は、ガイドの本音が垣間見られておもしろい。
まだのぞいて見たことのない方、是非 こちら も時々のぞいてみてください。
日本に住む(数少ない)知人は、ネパールに全く関心がない人ばかりなので、私が作っているHPやブログを教えても、興味を示してくれる人はほとんどいない。
ということで、『私とは全く面識のない、(ネパール以外に住む)人で、ネパール旅行に興味がある人』に対して、『こちらが損になることを隠したりせず、客観的な視線で情報を提供しよう』というコンセプトで、発信している。(ブログは主観も交えています)
こんなかんじなので、以前、とある旅行者からは、『旅行会社のサイトとは言いながら、商売気が全く感じられないHPだけど、情報だけヒマラヤン・アクティビティーズのサイトから得て、実際には他の旅行会社を利用する人もいるのではないか?』と心配してもらったことがある。
まさにその通りで、旅行について(メールで)質問するだけ質問して、その後ぱったり音沙汰なくなり、他社を利用する人もいる。
ときどきあるのは、カトマンズ入り後、安さを求めて、日本人貧乏旅行者ばかりが集まる旅行会社に行くケース。もともと、『安さ重視』『日本人とつるむ』ことを目的として海外旅行をしている日本人の利用は非常に少ないが、稀に、どういうわけか間違って(?)そういう旅行者がやってくることもある。そういう場合は、こちらから『日本人貧乏旅行者専門の旅行会社』名を教え、『軌道修正』してあげる親切な私なのだ。(確かに、商売っ気ないね)
話しがそれたが、そんな感じで、サイト更新している。
ところで、今のデザインは、見ていただければわかるが『青薄緑白』がメインとなった配色となっている。『ネパールの高くて青い空と、白い雲、緑の丘』をイメージしたらこうなった。
が、以前は、センスの悪い配色だった。覚えてる人はいるだろうか。
ネパール人たちからは、『ダマイの服みたいじゃん。おかしいよ(注1)』と不評だった。
(注1) 『ダマイ』とは不可触民に当たる仕立て屋カースト。村人は、服を仕立てるために、『ダマイ』のところに布を持って行く。服を作ると、ハギレが出る。そのハギレを集めて、あるダマイが自分の服を作ったら、赤やら青やら黄色やら、色とりどりの服になってしまった。という小話を例にして、私が作ったホームページの色合いをけなした時のセリフ。『ダマイ』に対する差別的発言にも取れるが、ここでは、差別の意味で使ったわけではないので、許してあげよう。
その後、2003年10月にサイト一新して、現在のHPとなった。トップページの『日々のカトマンズ情報』を頻繁に更新し始めたのは、2004年1月から。その後、2005年1月にブログをはじめてからは、更新頻度は減ってしまったが、一週間に一度程度の割合で、カトマンズの客観的情報を更新している。
過去ゲストブックにメッセージを残してくれた利用者たちの『利用者の声』は読み物としても楽しい。
2003年以降更新を怠っているが、トレッキングガイドたちがトレッキング中につけるネパール語の日記を日本語訳し、掲載している『ガイドのトレッキング日記』は、ガイドの本音が垣間見られておもしろい。
まだのぞいて見たことのない方、是非 こちら も時々のぞいてみてください。
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